絵描き共の変てこりんなあれこれの 前説 (今泉省彦)

今泉省彦

60年安保闘争後のなしくずしの情熱の中で何かが生まれつつあった
(絵描き共の変てこりんなあれこれの前説1)

仁王立ち倶楽部@CHRIS 002(1985年6月発売)

 1959年の春は、日米安全保障条約改定反対のデモの渦のなかにあった。60年になると、先走りして革命は目睫の間にあるど言いだす評論家もい た。政府・自民党の一部で、ひそかに自衛隊出動の計画が検討されているという噂も流れた。国会議事堂は連日数万のデモ隊にとり巻かれていた。

 私は結核患者として病院にいた。そして59年の秋から手術後の患者であった。輸血による血精肝炎で衰弱しきっていた。デモ帰りの友人が見舞に来て は目撃した情景を昂奮した口調で報告していった。テレビはニュースのたびごとに反対闘争のたかまりを報道していた。どういうものか私は醒めていた。肉体の 衰弱は精神の情動を許さないからなのかもしれない。私は見舞客の昂奮にとり合わなかった。「駄目だよ、うまくいきっこないよ、社共両党をシャツポに乗せ て、総評が主力部隊じゃ、いくら全学連がはねても利用されるだけさ、革命なんか起るもんか」

 樺美智子が圧殺され、6月19日、安保改定案件は自然承認となった。あとには社共両党への不信と、全学連の分裂が残った。

 そんな時期に、いまはさかんに音楽とも踊りとも名状し難いイベントをやっている川仁宏が見舞に来た。最近、近所に住んでいる絵描きと知り合いに なったが、そいつがお前を知っているという話であった。中西夏之である。近頃の絵描きや、美術ジャーナリズムや、画学生で、中西夏之を知らない者はいな い。日本有数の絵描きになっている。彼が芸大の2年生の頃からの知り合いなのである。私は3つほど歳上であった。中西の同級でその後外国の国際賞をとりま くって、国際的な美術家になった高松次郎とは、帰りの方角が一緒だったこともあって、ずっとつき合っていたが、中西は方角違いであった。その方角違いに旧 友の川仁が引越して、中西とのつき合いが始っていたのであった。

 私は退院してしばらくの問、薬をもらう外来がよいが続いた。病院は川仁のアパートの方角だったから、ついでに川仁を訪ねることが重さなった。それで、川仁の部屋で中西と再会することになった。

 50年代の画学生のほとんどは、社会主義リアリズムという考えにひきずり回されていた。要するに美術は社会主義革命に奉仕しなければならず、しか もそれは近代美術のような判り難いものではなく、民衆の判る写実的な手法で描かれなくてはならないのであった。そして判り易いだけではなく、社会の矛盾 や、資本家や権力に抗する闘いの典型的な場面を描き、闘いを鼓舞するものでなければいけないのであった。いっちょうまえの絵描きにだって難しい注文の多い 理屈を楯にして、評論家共がお説教をたれるのだから、ろくな絵も描けない画学生の頭がこんがらかるのは当り前であった。

 このこんがらかった脳みそを少し楽にしてくれたのが、1955年の日本共産党第六回全国協議会報告であリ、56年のソヴェト共産党書記長フルシ チョフのスターリン批判であった。一方は武力闘争を含めた革命路線の清算であり、一方は一国社会主義と個人崇拝の否定であった。片方は振り上げたこぶしの おろしようがなくって自殺する何人かを出しながら、歌って踊ってマルクス・レーニンの時代を迎え、もう一方はもっと馬鹿気ていた。このスターリン批判以前 は、共産党員同志の論争のあげくの悪罵は「貴様あトロツキストだ」というのであったが、56年以後は「貴様あスターリニストだ」という言葉に変った。言わ れた奴は黙っていないから、「そういう貴様こそスターリニストだ」と怒鳴り返えすわけで、1956年以前には共産党内部にトロツキストがうじゃうじゃいた のが、この年からはスターリニストばかりいることになった。こういうこっけいは中にいると意外に気付かないものである。

 そしてこんがらかった脳みそを完全にときほぐしてくれたのが、60年安保闘争の不成功であった。政治駆引きの筋道なんかおよびでもない単純頭の画 学生なんかに、政党の複雑なたくらみが判るわけもないが、単純頭が納得するようでなければ、これは策略でもなんでもなく、ただの騙しに過ぎない。1960 年代の政治手法はまだ幼稚だったのだろう。しかしながら、幸せにもそれで吾々は社会主義リアリズムというけったいな幻と完全に縁を切ることが出来たのであ る。とは言え、深刻な後遣症が、少くとも私には残った。

 それはなにか、社会主義リアリズムという変な帽子はぬげたけど、政治と芸術とか、社会と芸術とか、頭を熱くしていた命題迄は消えてなくなってはく れないのである。公式や教条がなくなれば、自分で考える他はない。芸術アプローチと、政治アプローチが重なってひとつであるような地点がどうもあるように 思えていた。そこのあたりについて、中西と逢えば議論していたのであった。

 その年の10月に社会党委員長浅沼稲次郎が刺殺された。安保闘争の高揚に行動右翼が危機感を持ったのであろう。あくる61年2月には中央公論社長 嶋中鵬二宅に右翼少年が飛び込んで、お手伝いさんが誤殺された。少年は中央公論所載の深沢七郎「風流夢譚」の内容に抗議すべく、嶋中を刺殺せんとして訪れ たのであった。深沢の小説には皇居前の広場で天皇・皇后がギロチンにかかって、首がスッテンコロリンと落ちる場面があって、少年はそのことに反発したので ある。

 私はこの事件にすこぶる腹を立てた。天皇は日本国憲法に、国民統合の象徴という奇妙な立場で規定された公的存在であり個人というよりは制度として あるものであって、公的存在というものは、常に言論その他の表現によってチェックされることを嫌忌してはならぬのであるから、天皇が名誉毀損で深沢ならび に中央公論を訴えないのは当然としても、右翼諸氏が言論圧殺に乗り出すのは当を得ていないということが一点。一歩ゆずって深沢ないし嶋中が抗議の対象とし て選ばれるのは仕方がないとしても、全く無辜のお手伝さんが刺殺されるべき理由はないのであって、天皇をたてまえとして無辜の民が殺された以上人間に戻っ た天皇は一言あるべきだと思ったのである。第三点これはむしろ番外とすぺきだが私の父は職業軍人としてフィリピンの山中で戦死した。敗戦の1カ月前であ る。軍人としてそれは当り前だろうが、父の死は天皇に帰属するものである。親は仕方がないにしても、子供にはちっとも良くないのだから制度的にも、個人存 在としても、天皇というものは私にとってあまり愉快ではなかった。いまはもう父親の死んだ齢をはるかに過ぎ、天皇が負うべき戦争の責任者であった頃の、天 皇の齢も越えてしまって、さらに美濃部達吉の「天皇機関説」を天皇が支持していたらしいことや、戦争回避のために随分腐心したらしいことやら、普通な善良 なひとらしいことが判ってきて、個人的な怨恨だとか、天皇そのひとに対する蟷螂の斧のようないかりはほとんど消えてしまったといっていい。なにしろ 1961年のことである。いまの話ではない。私は面白くないのであった。


今泉省彦

皇居前広場にゴージャスなギロチンを!
(絵描き共の変てこりんなあれこれの前説2)

仁王立ち倶楽部@CHRIS003(1985年8月発売)

 いまの私は天命を知ってしまう齢だがら、腹を立てても、一寸不愉快な顔をするくらいで、どうっていうこともないが、30歳になったかならないかの 生意気盛りだから、腹の虫の収め方を考えなければいけない。それで、深沢七郎は小説だげど、こっちは美術屋だから、ギロチンをどうしても立てたくなるので ある。芸術アプローチがどうの、政治アプローチがこうのと議論しているのだから、中西夏之にこの話をしないわけにはいかない。中西は「面白いね」と言っ た。一緒にやろう「うん」しかしだれそれの助力が必要だなあと言うのだ。これで中西はやる気だと踏んだ。

 家に帰ると早速プランを練り始めた。ギロチンの本物は見たことがないけど、曲馬団の曲芸には必ず入っている。人参だが大根だかをすばすば切ってみ せてから、支那服の若い女の首をつっ込んで、ストンと刃を落してみせるのだ。カミュに『ギロチン』という著作があって、その訳を読んでいた。首の落ちた体 はそのまま置いてある。体は何時間も痙攣しているのだそうであった。百科事典を索いたら、図版が載っていた。私にすればそれで充分だから、あとはどういう 具合に作ればいいか考えればいい。設置するつもりの場所を下見してみて、カミュの記述のような、たかだか2メートル余のものなんか、てんで迫力がないこと にすぐ気が付いた。

 絵描きという奴はどうしようもないのだ。豪壮華麗でないと嫌なのだ。私の設計によると、そのものはせめて5メートル高はなけれぱならず、しかも強 化ガラスで作られていて、クリスタルパレスのようにきらびやかでなげればならなかった、その上、この装置は作動したとたんにばらばらにくだけ散るのであっ た。カフカの場合、処刑機械に処刑されるのは、その機械の管理者にして、処刑執行者なのだが、私の場合、処刑されるのは処刑機械そのものであり、ギロチン は自裁を果すのであった。

 前号から読んでくれているひとなら気が付くだろうが、私は病み上りで、体力なんかからきしないし、それ以上に金なんかどこを振るったって出てくる 身分じゃないのだ。ほとんど病者の夢想に等しいのである。設計図は引けたって、強化ガラスで高さ5メートル、長さ2メートルのしろものを自分で作れるわけ がない。金持だとか、ガラス会杜を騙くらかしてみたところで、非合法に広場に据えつけようというんだから、話に乗る奴がいるはずはないのだ。それを本気で 考えるのだから、これは馬鹿にきまっている。口惜しいから、翌年そのプランを文章にして、ある雑誌に載せた。

 そうしたら中西夏之に早速批判された。《これは実現のための計画表ではなく失敗に終った後の整理表である。実現しなければなんにもならず、そのた めの計画文書であって、告白めいたものであってはならぬ。行動に向って自己を賭ける論理よリも、その心境の日付しかなく、行動の形骸が抽象的な空間の中で 文学的に期せずしてなってしまっている。これではフロイトの芸術リビドー説がいまだに通用してしまう》こういうわけだ。

 なんにも出来ないのが、残念で、翌日が天皇誕生日だという夜、二重橋の堀のへりにぼんやり坐っていた。ところどころに水銀灯が夜霧のなかであいま いにともっていた。右翼学生が参賀一番乗りをねらってうろうろしていた。ひどく疲れていた。ぼんやり学生達を眼で追いながら、夜陰には黒服だとかえって眼 立つのに気が付いていた。

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 日本の美術家達が、おとなしく絵を描いているだけでなく、展覧会場であれ、場外であれ、なにかしらアクションを含んだ表現を始めるのは、1920 年代からであるが、これは第一次世界大戦後のダダイズムの直輸入であった。ウオール街に端を発した世界恐慌は失業者の大群を作り、一方では労働争議が頻発 した。ロシア革命の成功を背景にしたプロレタリア美術運動の盛行と、ダダ後のシウルレアリズムに席巻されて、アクション含み表現はあっけなく消えてしまう のだが、このアクションの復活には1950年代後半まで待たねばならぬ。

 大阪のグループ具体美術がその魁けと言えようが、具体に先駆して大分の風倉匠によるハブニングがあった。いまはハブニング類似の行為をバフオマン スと言っているが、パフオマンスの前にはイベントと言ったりした。これらは言い方を変えただげではなくて、それぞれに内包する考えの違いがあるのだが、そ のことはさて置く。1960年代に入るとハプニングの花盛りであった。

 単に絵を描いたり、彫刻を作ったりすることでは収りのつかない焦燥感が若者達にあったのだと思う。既成の画家達や、その作品に対する不信、革命党 の権威の失墜などがないまざって、体ごとぶつけていく緊張におぼれることの快感をこそ芸術と念じたのでもあろう。ともあれ、まずそこから、そこを出発点に して、自分の芸術を考えようとしたに違いない。そして靉嘔にしても、ネオダダの諸君、九州派、時間派、観光芸術研究会やゼロ次元にしてもハイレッドセン ター、あるいはニルバーナの面々にしても、それぞれの構成メンバーは、良し悪しを別としても、アクションを通して自分の表現の方法を確立していったのであ る。

 私ごとき者のところにもハプニングの案内は送られてきた。そのいくつかは見物に行った。どうも面白くなかった。やってる本人はきっといいんだろう なと思った。けれども見ている方は退屈でしかたがないのであった。踊らにや損々である。絵や彫刻がひとに衝撃なり感銘なりを与えるように、アクションにも それがあるのでなければ、こりずに見に行くのはよほど阿呆である。これじゃ駄目だと思った。既成の美術は全部吾々には関係ないというところまではいい。し かし連中は仲間内の内閉した空間が、どうせ絵描き馬鹿がなにかやってると世間のひとに思われる範囲でしかやっていないではないか。それが一体なんだ。芸術 なんかなんの役にも立たないし、世間から切り離されてしまっているという現状に衝迫力を持って対峙する手だては一体全体ないのか、これが私の考えであっ た。だから病後の体を川仁宏のところに運ぶたびに、川仁を含めて中西夏之と話をしていたのである。ギロチンの計画を雑誌に発表したのが1962年3月、ウ ロポンK・J高松・N中西・K村田連名による山手線円環行動はやはり62年の10月であった。ウロポンK・K村田はともかく、J高松・N中西はそれぞれ高 松次郎・中西夏之であった。


今泉省彦

『山手線円環行動』は上野公園で行き暮れてしまった
(絵描き共の変てこりんなあれこれの前説3)

仁王立ち倶楽部@CHRIS004(1985年9月発売)

 ある日、角封筒入リの案内がとどいた。品川駅を起点としてなにかがあるというのだ。連名の呼ぴかけで4人、そのなかにJ・高松、N・中西とあるか ら高松次郎・中西夏之がなにかたくらんでいるのに相違ない。私は指定の日時に品川駅のホームで降りた。顔を白塗りにしたK・ウロポン、K・村田、中西、白 塗りでない高松、それに友人の川仁宏、彫刻家の小畠広志、その他顔見知りが何人もいた。雑誌『美術手帖』編集長の愛甲健児が寄ってきて、このブランの企画 は今泉さんだと聞いたのですがと言った。「知りませんよ、ぽくは案内もらったから見に来ただけです」愛甲は冷めたい奴だな、本当のこと言ったっていいじゃ ないかという顔をした。でも本当にそうなのだから仕方がない。中西はコンパクトオブジエと称する古靴だとか髪の毛だとか、こわれた時計だとかのつまったア クリルの卵型の作晶に鎖をつけてぶらさげられるようにしたもの。高松はぼろ布を撚って、こわれたおもちゃや、がらくたをくくりつけて、ペンキで真黒に塗っ た作品をボストンバッグからひきずり出していた。この紐の作品は、高松によれば不在体であってこれとの関係が出来るとすべてのものは不在化するのであっ た。ハプニングは品川駅を皮切りに車中でもなにかやりながら、有楽町・東京・上野・目暮里・池袋・新宿・渋谷と、電車を降りて、ホームでなにかをやって品 川に戻ってくるはずであった。カメラマンが沢山来ていた。ムービーも一台いた。新橋のホームに降りたとき、高松が私のそばに来て、サングラスが欲しいと 言った。彼は当時会社勤めで、休みをとって来ているのだが、顔を白く塗るのも嫌だけど、素顔を見られるのも不昧いとそのとき気が付いたのであろう。仕方が ないから、私は判ったと言って一電車先に東京大丸にとんで行った。10月でサングラスは売場にはなかった。婦人用のファション物だけなのだ。それを買っ て、馳けて東京駅のホームに戻ると連中はそこにいた。「おい女物しかなかったよ」「それでもいいです」と高松は言った。上野で又降りた。ホームでがさがさ 皆がやっていると中西が公園口の階段を昇っていった。追っかけていくと彼は改札を出てしまっている。これ又仕方がないばらばらでなにかやっている連中ひと りひとりに、中西が改札を出ていってしまったぞと言って歩いた。なんのことはない、にわかマネージャーみたいなもんだ。卵形オブジェをなめてみたり、懐中 電灯でてらしてのぞき込んでみたり、鶏卵をかけてみたりしたところで、そんなに永持ちするわけはない。所定の駅で降りるたびに乗っていた電車は行ってしま うのだから、なにも知らないひとの前でなら何回同じことをやっても新鮮だろうが、ぞろぞろついて回るカメラマン・美術家・ジャーナリズムを意識すると、や りきれないだろうと思う。中西は疲れ果てて改札を出てしまったのだ。公園口を出て、右に科学博物館の方に少し行くと柵があって、そこからは線路が見下せ る。ぼんやり電車が鴬谷に向って走り出すのを跳めながら、ああ皆行ってしまったと中西は思ったのだそうだ。もともと、ちょろっと逃げることの好きなたちで はある。内心ほっとしただろうと思う。私に見られていたのは気付いていないのだ。皆は私から聞いたから三々五々改札を出て来た。カメラマンや美術家や ジャーナリストもついてくるにきまっている。つまり、そこで終りであった。東京都文化会館の脇で一寸となにかやって、皆気落ちした顔になった。卵型オブジ エも紐もボストンバッグのなかに収まって顔白塗リの連中は東京文化会館の便所に顔を洗いに行った。後日知ったが、グループ音楽の刀根康尚と小杉武久は呼応 して同時刻に、山手線を音楽イベントをやりながら、彼等はひと廻りしたのであった。どこかで合流出来ると思っていたのかも知れない。

 私はどうも面白くなかった。《「……元の型をすくい出して『………の為に』供することも都合のいい鋳型に流し込んで再出することも」「無意味に なってしまった現在、おれ達はこの流動物の中を泳ぎまわって撹拌し空白にしてしまおうと言う欲求にかられる」「この集含体に出くわすなら、空白内のカクハ ンされた一分子と化し、個性を消され、あなたとおれ、おれ達と物質の識別不可能なルツボの中に落ちいるだろう」》こう彼等は案内状に書いていた。現状認識 については異論がない。撹拌して空白にしてしまいたい欲求もそうである。だがしかし、あなた達はかくかくなるであろうということになれば、そんなわけには いくかいと思うのだ。若い意欲は、大方そんな風にして見当を狂わせるのに違いない。それにして沢山のカメラとムービー迄いてしまえば、なんにも知らない乗 客でもカクハンなんかされはしない。私が聞いたわけではないが、あれはきっとテレピか映画のSFもののロケじゃないかとささやき合っている乗客もいたそう だ。変なことに出逢うと、そんな風にして理解できるものに還元して、日常に戻す力というものを、吾々は持っているのだ。カメラは案内をもってきた奴等が持 参したのより中西や高松が記録を残そうとして呼んだ奴の方がはるかに多いのだ。彼等は自分でねらっておきながら、乗客の意識がカクハンされるのを邪魔して いたのである。ましてや美術ジャーナリズムや美術家共は、高松や中西がなにをやっても、したり顔で彼等をとり巻いているのだからなんだか分らないにして も、少なくとも芸術に違いないところで納得させてしまう邪魔者にきまっているのであって、彼等はこの山手線円還のハブニングを、後年山手線事件と称するの だが、こんなものは事件ですらない。もっともカクハンされたのは実は当の本人達なのである。私は君達に総括をしろと言った。

 総括は形を変えて座談会になった。美術をめぐる思想と評論とサブタイトルした『形象』という同人雑誌で、金を出す同人は芸大彫刻を出て教師になっ ていた佐藤和男と遠藤昭、それに私、金にはまったく無縁の川仁宏、この4人が編集をしていた。前号に書いたギロチンのくやしまぎれのプランはその雑誌に載 せたのである。中西は仲間だけで話をしても面白くないからと言って、赤瀬川原平に声を掛けた。その頃の赤瀬川はまだ文章を書いていない。赤瀬川は心細いも んだから仲間の木下新を連れてきた。木下新はいまニューヨークにいる。そんなわけで、この座談会は当事者の高松と中西、ゲストの赤瀬川と木下、編集部の川 仁と私ということになった。場所は大森に移った川仁のアパートである。赤瀬川も木下も、山手線のときには来ていなかった。だがら赤瀬川はどういうことをし たのか知りたがった。中西はやったことよりは、やろうとしたことの方が大事なんだと言って、なかなかしゃべらないのである。赤瀬川はいらいらして「意外と 判るんだな、聞けば」と言った。


今泉省彦

早大での犯罪者同盟主催の演劇ショーとプレH・R・Cの関係について
(絵描き共の変てこりんなあれこれの前説4)

仁王立ち倶楽部@CHRIS005(1985年10月発売)

 山手線をひと回りするハプニングを総括する座談会は、中西夏之が言いしぶるものだから、はじめもたもたした。壮図むなしく、本当は渋谷迄回ってい くはずのハプニングが、品川・有楽町・東京・上野と来て、そこで止ってしまった原因は中西にあるのだから、これはやむを得ないことである。中西は自分達の やったことの、意図の説明として、こんな風なことを言った。今泉のギロチンのプランは、対応する事件があって計画されているけれど、自分たちのには対応す る事件がないと。つまり自分達の行為そのものが事件なのだという考えであった。この性格はやがて結成されるハイレッドセンクーに引き継がれていった。

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 はっきりした記憶はないが、山手線の騒ぎの頃だったと思う。私の処に平岡正明から連絡があった。11月の早稲田祭で大隈講堂を使って芝屠をやるん だけど協力してくれないかという話であった。場所はどこだったか忘れてしまったが、10人ほども居たろうか、平岡は馬鹿にはしゃいでいた。舞台で裸になっ てくれる女はいないかなというから、小野洋子に頼んでみたらどうだとか軽口をたたいていた。平岡はそのひとはどんなひとかと聞いた。当時の小野洋子は世間 的には無名であった。「舞台で強姦してしまうんだ」「へえー、それはいいじゃないか」とは言ったが、そのかわり小野洋子どころか、役者として裸になってく れる女のひとを探すのはいやになってしまった。

 この芝居の構成メンバーは、大江戸揮沌党とか、犯罪者同盟とか言って、早大露文の2年か3年だった平岡と宮原安春が組織した連中で、彼等はかって あつた早稲田の演劇サークルの名前を騙って、早稲田祭実行委員会のプログラムに割り込んでいたのだった。台本はその時受取ったかどうか判然としないが、宮 原安春の台本で、平岡は主演である。

 ところで台本の面白くなさはさておき、平岡の考えの幼稚さにはうんざりしてしまうのだ。年齢に10の差があるのだがらいたしかたないのだが、それ でもなんとか協力してやろうと思った。なにしろ大江戸揮沌党である。彼等は難しいことばがり言うからわけが分らなくなるのだが、単純に言えぱ、維新前夜の 薩摩藩が、江戸市中で火付強盗を働いて、人心を騒然とさせようとしたように、犯罪を激発させて、革命的情勢を作り出そうというのがねらいであった。けれど も緒局彼等のやったことは、たかだか、軽犯罪に過ぎない。つまりは公然とアジるだけの思想集団だったのだろう。それでもなにかの役に立ちそうだから、関係 はつなげて置こうと思っていたのだ。

 平岡や宮原とは自立学校準備会で知り合った。自立学校というのは、詩人をやめたばかりの谷川雁が、筑豊の大正炭坑闘争に入れあげて、どうやら先も 見えてきた感じの頃に、自立した思想集団を作るというようなことで始めた学校で、1962年の9月に開校集会をやって、たしか10月から早稲田の観音寺で 授業を開始した。とりあえず準備会メンバーが運営委員になったが、山口健二、松田政男、川仁宏、平岡正明・宮原安春・栗田宇喜・私などであった。もっとも 川仁・平岡・宮原・私は一カ月後に運営委員を降りた。他の三人はともかく、私は、集ってきた生徒と講師との関係が、ファンとスターのそれみたいなのに嫌気 がさしたのである。講師は谷川雁をはじめ、吉本隆明・秋山清・埴谷雄高・栗田勇・森秀人・中村宏など、錚々たる陣容であった。

 この開校集会で、司会役の山口健二が臨時講師の立候補をつのったら、中西夏之が立候補した。彼はその場だけの講師として立候補し、例の卵型のオブ ジェをぶらさげて、発煙筒を燃いて満員の会場をぐるぐるめぐリ歩いた。音楽家の小杉武久も同時に彼の演奏をやった。これは紐で自分がぐるぐる巻きになると いうものであった。

 司会の山口は一寸と困った顔をして、この立候補を認めるかどうか、後日運営委員会で検討すると言った。中西はその場でやればよかったのであって、後日、自立学校の講師になりたかったわけではないから、この山口のとんちんかんはおかしかった。

 そして10月には中西・高松等の山手線のアクションがあり、平岡達の大隈講堂の芝居が11月であった。私は彼等に協力するとは言ったが、どうして も素直に舞台美術をやってやる気になれなかった。そこで、以後の彼等の会合はすべて欠席して、彫刻家の小畠広志、中西夏之、高松次郎の3人に、それぞれ別 々に逢ってなにかやれと口説いたのである。

 赤瀬川原平が『東京ミキサー計画』(1984年・パルコ出版)という本を出した。ハイレッドセンターに関する文章をまとめたものだが、自分がかか わっていないことについては聴き書きだから、間違っているところが大分ある。面白おかしく書くのもいいが、文名の高い赤瀬川が書くと、即事実と思い違いさ れてしまう、大勢には影響がないと言ってしまえばそれまでだが、例えば赤瀬川だって、森秀人に赤瀬川も自立学校の生徒だったと書かれたとき、ぼくは関係あ りませんよと言って怒るのである。赤瀬川は自立学校となんの関係もなかった。同じように、前掲書にプレハイレッドセンターとして大隈講堂の芝居の記載で 「11月22日犯罪者同盟主催の演劇ショー、早大・大隈講堂 高松出演、中西舞台美術を坦当」とあるのは誤りであり、音楽担当の小杉武久が、音楽を流さず に、細い紐を使って客席をぐるぐる回っていたとあるのも誤りである。まず小杉に関してだが、音楽については小杉に頼めと平岡に言ったのは私で、当日、小杉 は舞台の袖でテープを使って音を流していた。細い紐を使って客席をぐるぐる回ったのは自立学校開校集会の時である。次に高松出演、中西舞台美術と書くと、 犯罪者同盟と合意があつたように読めてしまうではないか。犯罪者同盟側は、高松や中西が彼等の芝居を妨害するようなふるまいに及ぶことなど、まるで知りは しないのである。ましてや、小畠広志が彼等の芝居のサバトのくだりのところで、2階観覧席から自分の彫刻を突き落し、こなごなに壊そうとしていることなん か知るよしもないのである。

 当日早めに会場に行くと、入口に3×6の小汚いベニヤの看板が立っていた。ところどころに糞がひりつけてあって、なんでも平岡が尻をむいてひりだ したものなのだそうであった。私はそういう犯罪者同盟諸君のマスタベーションがなんとも嫌なのである。小畠も高松・中西も来ていた。いまは彫刻学生の注視 の的になっている若林奮も立っていた。小畠は気負って上気した赤い顔だったが、高松・中西・若林はわけあリげににたにたしながら立っていた。


今泉省彦

犯罪者同盟なんかへの河童! 絵描き共は暴走した
(絵描き共の変てこりんなあれこれの前説5)

仁王立ち倶楽部@CHRIS006(1985年11月発売)

 大隈講堂の犯罪者同盟の芝居で、彫刻家小畠広志がやろうとしていたのはなにか。彼は埋葬彫刻と唱して、黒枠付きの案内状を、美術家や美術評論家、 美術ジャーナリズムに発送していた。白セメントで舟底型の、内側を真赤に塗った自分の彫刻を、10点ぐらいあったろうか、それをその場で全部壊すつもりで いた。

 私と小畠との打合せでは、芝居のサバトのくだりで、2階から彫刻を落すやいなや、彼は手斧や鉈でその作品をたたきこわす。私は2階右袖の照明を ひったくって、小畠に光をあてる。そういう寸法であった。2階で見ていて、サバトが始ったところで合図を送ると、小畠は懐中電灯を2階正面客席に向けて振 り回した。そうすれば小畠の遅れてきた仲間が、バケツに汲んできた水を下にぶちまげて、人ばらいをして彫刻を落す手はずであった。ところがいっこうに水を ぶちまかないのである。真下に大柄でふとった婦人が立っているのだ。小畠はかまわないからぶちまけろ! と地団太踏んで叫んだ。もろに婦人を水びたしにす るわけにいかないからためらっていると、小畠がとんできて、その婦人を突きとばした。婦人は「なにをするのよ!」とどなった。当時はまだ、画家小山田二郎 の夫人だった小山田チカエであった。

 それでとにかく水をぶちまけて、彫刻を落すことが出来たのだが、本来彫刻家は誰でもそうだが、作品を作るときは壊れないように丈夫に作るものだか ら、3メートルくらいの高みから落してもびくともしなかった。小畠がとびついて力まかせで手斧をふるっても、破片がとびちるだけで、思うように割れてはく れないのだ。彼は悪鬼の形相であった。私は私で照明のところにふっとんで行った。ところがなんと、舞台照明はすぺて舞台天井からのブラックライトだけで2 階袖のライトにはそもそも電源が入っていないのであった。

 照明が使えない以上、そこにいても仕方がない。中西夏之や高松次郎がなにをしているのだろう、私は下に降りていった。ロビーに出たら旧友の画家武 田敦史が首にカメラをぶらさげてきていて、「あっちだ」といった。講堂の便所である。私は入って行って吹き出してしまった。舟底型の縦長の小便用金隠し 10箇ぐらい斗列しているのだが、その内側が全部真赤に塗られていた。外側まで真赤なのもあった。大便器も同じであつた。これではまるっきり小畠の必死に なってたたき壊している彫刻とおんなじではないか。中西は小畠がなにをやるのかを知らないのだから、これは全くの偶然だけど、おかしいったらなかった。

 にやにやしながら武田に写真を撮ってもらっていたら、早稲田祭実行委員の腕章をつけた学生が入ってきて、「これは貴方がたですか」と詰問した。 「いえ違いますよ」「じゃあそこでなにをしてるんですか」、なにしろ武田がカメラをかまえているのだから、疑われても仕方がない。「いや、面白いから写真 撮ってるんです」、学生は釈然としない顔で出ていった。

 武田の話によると、中西が白衣・白マスクで金隠しを塗っていると、実行委員会の学生が入ってきて、なにをしているのか聞いたのだそうだ。白衣・マ スクの中西はとぼけた顔をして、「えっ、これは新しい消毒の方法です」とか言ってごまかしたらしい。このときの武田の撮った便所の写真は白黒だけど赤瀬川 の『東京ミキサー計画』に載っている。

 場内に戻ると、小畠はもういなかった。替りに高松が例の紐の作品をひきずって舞台に上っていったと思う。小畠を探して、会場左脇の廊下に回って 行ったら、壁に小畠の彫刻が5・6体立てかけてあって、これはかなり壊れていた。ロビーに戻ると小畠が彫刻を壊すための七つ道具を入れた道具袋を持って現 われた。物凄い剣慕でそれを私に放りつけた。おい、どうするんだこれ、「今さん捨てろ」といった。よほど興奮していたに違ない。いくら捨てろといわれたっ て、道具は彫刻家の魂である。私が捨てられるわけがない。小畠はそのままどこかに消えてしまった。仕方がないから小畠の家にそれらを届けて家に帰った。

 後で聞いた話では、芝居が終ると、早稲田祭実行委員会が損害賠償だとか、片付けろとか大騒ぎをしていた。早稲田側の損害は、小畠が彫刻を2階から 落させたとき、講義筆記用の椅子の背中の折りたたみの机の蝶番がひとつくたくたになっただけで、片付けは小畠の彫刻を含めて、犯罪者同盟の諸君が全部やら された。中西の塗りたくった便器の赤いペンキを落しながら彼等は「やっぱり絵描きにはかなわねえや」と言っていたそうだ。私はちゃんと協力してやれたこと で嬉しかった。更に後で若林奮の話を小畠から聞いた。トロッキーかなにかの、ビラをまくつもりで、二階観客席に坐っていたのだそうだ。若林は内気な男だか ら、結局なにも出来ずにいたのだろう。

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当時、日本アンデパンダン展と称する展覧会がふたつあった。いずれも上野の東京都美術館で開催されていた。一方が日本美術会主催で、一方は読売新聞 社主催であった。アンデパンダンとは自主独立といったようなことだが、美術の世界では出品作品の審査をしない展覧会の意味であって、そういう展覧会は、同 じ東京都美術館を使って、他にもふたつみつあった。しかし、同じ名前というのはこれだけである。日本美術会の日本アンデパンダン展は1947年12月に第 1回展をやり、読売新聞社のは翌年の2月が第1回展であった。当然日本美術会側は読売新聞に抗議したけれど、読売側が応じなかった。それで同じ名前の展覧 会が、以来15年間、東京都美術館で、時期こそ違え、並存することになった。仕方がないから識別上、日本美術会のを『日美アンパン』読売新聞社のを『読売 アンパン』と吾々は呼ぶようにした。

 読売新聞社は説明を要しないが、日本美術会は知らない読者が多いと思う。太平洋戦争終結後、民主主義美術をめざして結成されたのだが、その設立の 時期には、いま見てこのひとがと思うような画壇の大家が名を連ねている。二度と戦争協力などしないように、そして困習に満ちた画壇の権威主義に屈しないよ うに、画壇を民主的に再編成しようというのが、その結集のねらいであった。ところが戦前にプロレタリア美術運動に参加していた画家達や、美術評論家達が、 大量に共産党に入っていて、このひと達が、日本共産党の文化政策の美術部門にいて、党員以外は大衆とみなした指導方針でのぞむものだから、日本美術会結成 に賛同して参加した大家達は次々に脱落してしまった。

 共産党にとっては日本美術会は大衆団体であって、党指導の対象なのであった。そんなわけで、日美のアンパンは社会主義リアリズム風の絵が溢れていた。そうでなければ絵ではないと言われそうな雰囲気であった。

 

今泉省彦 

読売アンパンは予供の描いた絵まで並んでお祭りのようだった
(絵描き共の変てこりんなあれこれ前説6)

仁王立ち倶楽部@CHRIS007(1985年12月発売)

 読売新聞社主催の日本アンデパンダン展は、著名な抽象画の大家の大きな絵の隣に、三橋美智也とか正田美智子を、写真を見ながら描いたような鉛筆画 が並んでいたりして、無闇に楽しかった。この雰囲気については、赤瀬川原平の著書『いまやアクションあるのみ!〈読売アンデパンダンという現象-〉』(筑 摩書房刊)に活写されているから、一読をお推めしたい。但し、例によって赤瀬川の記述には若干事実関係の誤りがある。私の知る範囲については逐次訂正しよ うと思う。

 東京都美術館は設立以来、日本では一番大きな展覧会場として、しかも中央なのであった。大きな美術団体に独占されていて、ここでは各美術団体の権 威ある審査を通らなければ、絵が並ばないのである。それが、出品料を払いさえすれば、誰でも絵が並べられるというのだから、アマチュア絵描きが喜んだのは 当然であった。子供の描いた絵まで並んだのである。お祭りのような楽しさがあるから、画学生が興奮したのも無理はない。ようしやってやれといった按配で、 でたらめは回を追うごとにエスカレートしていった。それは、潮を引くように画壇の大家達が出品しなくなるのと反比例していた。つまり旧態依然たる絵の描き 方では、若者のでたらめの迫力には、会場のなかでの見ばえにおいてかなわないのである。このようにして、日本美術会の日本アンデパンダン展でも、読売新聞 社の日本アンデパンダン展でも、既成画壇の大家達は、若者やど素人を含んだ、いわば一種コミューンのごとき会場で、新たな地平を拓く機会を捨てて、元の古 巣に戻ってしまったのであった。

 アンデパンダン展というものが、ひょっとすると、旧弊な日本画壇に地割れを起させるかも知れなかったのに、事態はそれを素通リして、もっと先に行ってしまった。

 ともあれ、若者達は勢に乗って、あいつがあんなことをやるのか、そんならあの上を越さなきゃ、といった風で、展覧会の常識をどんどんやぶり始めた のが1960年代であった。その連中の作品が、いま各地の美術館に収蔵されはじめているのだから、彼等は間違ってはいなかったのであろう。とはいえ、当時 のがらくたに類した作品群は、もうほとんど残っていない。貧乏な絵描き達には、がらくた作品を収めて置くスペースなんか用意出来っこないから、廃品回収所 から拾い集めて作られた作品群は、会期が終ると、元の廃品置場に戻っていくのであった。こうしてエスカレートしていくと、当然のことながら、展覧会主催者 や美術館側が眉をひそめるようなものが出品されてくる。

 あるグループは、仲間で金を出し合って、大型トラックで作品を運び込んだ。荷くずれしないように、作品同志でぶつかり合って壊れてしまわないよう に、ぼろ毛布、ぼろ布、麻袋、荒縄などで厳重に梱包してくるわけだけど、出品手続を済ませて会場に運び込むとなると、解梱するから、梱包材料はとたんに邪 魔になる、トラックに積んで持ち帰るのも面倒だ。その山を跳めていて、この方が運び込んだ皆の作品より芸術っぽいということになった。よし、これも出品し てしまえ、ごみの始末を考えなくってすむではないか、一挙両得である。しかしながら、これは受付でこんたんを見抜かれてしまった。

 その次は風呂桶である。拾ってきた風呂桶に、ほっかむりをした人形を入れて、その手に本物の出刃包丁を持たせてある。『そろそろ出掛けようか』と いうのが作品のタイトルであった。これは受付は通過したのだが、展覧会の初日に当の作者が会場に行ってみたら、どこにも並んでいない。探し回ったら階段の 下に押し込んであった。ひっぱり出して会場に並べて置いて、次の日に行ったらまたなくなっていた。こんなことを何回か繰返して、当人はつくづく嫌気がさし て会場に来るのをやめにしてしまった。こんなトラブルを全部書いたって仕方がない、話をつなげる上で必要なケースを3つばかり紹介しょう。

 会場の一室ほぼ半分ほどの面積に白布が敷かれてあり、その上を踏んで歩くと下から色が浸み出る作品があって、それが撤去された。床を汚すのが理由であろう。

 天井からぶらさげる作品も、天井からでは駄目だということで計画変更をさせられている。これはフーコー振子だから、下に置いたのではどうにもならないのだが、当人はあきらめて、床に置いたようだ。

 それから写真家の吉岡康弘である。初日に美術館長が会場を見て回っていた。館長は吉岡の作品の前で足を止めて、「これはまずい」といった。それで 作品は撤去されてしまったのだが、これはヴァーギナを接写拡大したものなのだそうである。これは私も見ているが、なにを写したものか判らなかった。受付 も、展示担当者も気付かなかったのだから、この美術館長は大した通人だといわなければならない。私なんぞ、いま見ても、どこがどうで、どうしてこれがそう なのか判らない。学のあるひとは違うなあと、つくづく思うばかりである。

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 展示拒否は読売アンパンばかりではなかった。日本美術会のアンパンにもあって、これも又、なんとも恥しいかぎりであった。

 彫刻作品がひとつ猥褻だということで拒否されていて、これは日本美術会の会員だったので、憤然脱会したということがあったそうだが、これは見ていない。

 もうひとつは私も見た。60×40センチくらいの平面作品で、出品受付の際には新聞紙につつまれており、この新聞包装は展示後観客によって破られ ると付記されていた。展示責任者はこの但書を無視して包装を破った。中から出てきたものはパネル上部に桃色パンティが貼ってあリ、そのパンティの局部該当 の部分には十二弁の菊の紋章が付いていた。そして下には天皇一家の写真が並ぺられ、その周囲にうじ虫様の物が取り付けられてあった。これは問題だというわ けで、展示貴任者は居合せた仲間と相談して、ともかく出品者を呼び出すことにして電報を打ったのだそうだ。ところが電報は宛先人不明で返ってきてしまっ た。それでこの作品は展示保留のまま、展覧会事務室に放置されっばなしで会期を終了したのであった。但しこれは後に述べる都美術館の陳列作品規格基準が出 された後の出来事である。

 読者は他愛のないことだと思うだろうが、この読売新聞社社・日本美術会主催の両アンデパンダン展に起きた受付拒否・展示拒否、あるいは作品撤去は、作品の良し悪しではない重大な問題だと私には思えた。

 果して東京都美術館側は、借館団体会議を召集して、陳列作品規格基準案を提示した。それは不快な音を立てるもの、悪臭を発したリ、腐敗の恐れのあ るもの、刃物等ひとに危害を加える恐れのあるもの、観客に不快感を与えるもの、公衆衛生法規に触れる恐れのあるもの、床面を汚すようなもの、天井から釣リ 下げるもの、などは展示してもらっては困るという内容であった。


今泉省彦 

高松・赤瀬川・中西を手持ちのカードにして読売アンパンに死亡宣告を!
(絵描き共の変てこりんなあれこれ前説7)

仁王立ち倶楽部@CHRIS008(1986年1月発売)

 東京都美術館が1962年に、ここを会場として展覧会を開催している各団体の代表者を集めて、同意を得ようとしたのは、美術館側が陳列不適当と判 断した作品については当該展覧会開催団体に申し入れて、協議の上展示品を撤去をするということについてであった。ところがこの種のトラプルで手を焼くのは アンデパンダン型式の展覧会をやっている団体だけであって、事前に作品審査をやっている団体にはおよそ関係がないわけだから、これに異論を称えるのは審査 制の美術団体ではなかった。都側の出してきた事例はことごとく芸術の名に値いしない非常識なケースであって、締め出して当然なのである。この都側の提案に 反対したのは『ニッポン展』という、アンデパンダン方式の展覧会をやっていた前衛美術会だけだったと私は聞いている。従ってこの提案は借館団体会議で承認 されてしまったのである。

 主催者が陳列するのはどんなものかと首をひねるような作品は、読売新聞社主催の日本アンデパンダン展に集中しており、これらを受付拒否するのは無 審査の絶対矛盾だから、拒否の責任を都美術館側に背負わせる方が都合がいいにきまっている。証拠があるわけではないが、私は読売側が都美術館と協議してこ の案を作ったと判断した。美術評論家連盟はこの措置に対する反対声明を発表した。反対理由は、芸術判断を都の役人がやることの危険性についてだったと記億 しているが、私もその点について同感であった。しかしそれ以上のことはしなかった。

 ぶんむくれにむくれて、私は読売アンパン常連出品者宛にアッピールを郵送した。以下全文を示す。《アンデパンダン展に喪章を送れ、又は君等美術館から溢れ出よ》というタイトルである。

「アンデパンダン展とはなにか、こういう簡明率直な問いが口唇をついて出るや否や、早くもはなはだシニカルな、苦い笑いとして唇の群がひそかにゆが み、さざなみとなってひたひたと周辺をひたすかに思われるのであって、現今の両アンデパンダン展はもはや、それが本来荷いもつべき当然の役割からはるかに 遠く、あたかも温室に栽培される寒気にひよわい熱帯植物、又は保温水槽にひらひらとはでやかな熱帯魚のための、外気を遮断する保護装置となり果てたのでは ないかという感想を禁じ得ないのである。読売アンデパンダン展は5人の展示拒否を受け、それを認めた者を出し、日本美術会のアンデパンダン展も又、聞く処 によると、1人の彫刻家がその作品の猥褻性において非難を受け、慣然脱会するという事件があったということである。言う迄もなくアンデパンダン展とは対画 壇行動なのであって、それが反社会性を帯びるに至ってその命運を閉じるのである。読売のアンデパンダン展は遂におのずからそれをおびきよせることによって 壁の前に立ち、日本美術会のそれは設立の当初からこの二つのファクターを混在させることによって未成熱のまま、遂にどちらをも無力にしてしまうことで意味 を失なおうとしているのである。中原佑介によると、読売アンテパンダン展の展示拒否問題について滝口修造と勝尾伸之しか昨年は発言しておらずこれはざまあ みろという類の問題ではないそうであるが、その当の中原佑介は一体なにをしていたかという疑問はともかく、発言したとはいいながら滝口修造は民主主義のた めに美術家の良識に訴えるところの、読売の番頭じみたお説教をたれたという噂であるし、勝尾伸之も又、斜にかまえてはなはだ判然としない意見を示していた ようである。

 アンデパンダン展のマクシマムは反画壇であり、直接的には審査公募展との対概念であるということは『形象』7号が既に触れた。対概念としてある処 の無審査公募に展示拒否があるということは、明白な撞着であり、のみならず自己否定であって、これを指してどうしてアンデパンダン展と言えようか。まず私 はアンデパンダン展の死を宣告し、ついで1963年の読売アンデパンダン展とは、それがみずから演ずる処の告別式であると言おう。

 アンデパンダン展出品者諸氏、氏等はこの既に息断えたアンデパンダン展を喪章で飾りたまえ、音の出る美術は美術ではないとほざくうすのろの耳に音 楽家諸氏、君等は耳を聾する葬送の曲を出品し、その耳をつんぼにしてしまえ、生半可な聴える耳がなければ世界はうすのろの楽園に違いあるまい。そしてアン テパンダン展に関心を持つ人達は黒いリボンを胸につけて、この告別式に参加せられよ。こうして、あえてこの温室を打ち割って、君等が美術館からあふれ出た とき、君等は反社会行動者として日本の美術運動に別の局面を与えるかも知れないのだ」

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 読売新聞社主催第15回日本アンデパンダン展は、1963年3月2日土曜が開幕であった。若者が何人か喪章をつけて会場をうろついていた。第1室 には赤瀬川原平の作品があった。千円札を畳ほどの大きさに拡大模写したものを真中にして、両脇にはキャンバスなら100号くらいの大きさの、ぼこぼこにふ くらんだものをクラフト紙で包んで麻紐できちっとしばった作品であった。中西夏之と高松次郎のは一番奥の部屋である。中西のは『洗濯バサミは撹拌行動を主 張する』というタイトルで30号くらいのキャンバス6枚牧、シャツ・シュミーズ・ズボン下、昔使われていた煙草小売店用のガラス壷などに、アルミの洗濯バ サミを群生させたもので、その下には同じ洗濯バサミが無闇に置かれていた。中西はこのときが初めてで最後の読売アンパン出品である。高松は山手線のときと 同じぽろ布を纏って、こわれたおもちゃやらなにやらのがらくたをくくりつけて真黒に塗ったもので、長さは10メートルもあっただろうか、壁面にカーテン風 につるした白い布の下から出てきてとぐろを巻いていた。『カーテンに関する反実在性について』というタイトルであった。

 中西の作品の下に置かれた洗濯バサミは少しずつ会場のあちらこちらにちらばってはりついていた。中西は友人達にひとの作品にはつけないように頼んでいたが、面白いもんだから、ひとの作品にもくっつき始めていた。

 私はこの3人の出品作品を見て、しめたと思った。中西も高松も山手線ひと回りのイベントの頃からカオスということを考えていた。赤瀬川はこの読売 アンパンの直前に個展をやっていて、その案内状の裏、表は一色刷凸版の千円礼であった。そして雑誌『形象』8号にとじ込むための試刷りがこのアンパンの会 期中に出来上ってくる予定であった。あちこちにちらばっていく洗濯バサミは、ついでに赤瀬川の一色刷原寸大の千円札も同時にくわえ込んでいげばいいのであ る。高松の紐の作品は伸びていって上野駅に達し、レールによって日本全土につながるのが運命でなけれはならない。他の出品者も都美術館を刺激するようなこ とをやるだろうが、私の手持ちのカードはこの3人で充分であった、なにしろ私は読売新聞社主催の日本アンデパンダン展をこの回かぎりでつぶすつもりなの だ。


今泉省彦 

読売アンパンで高松の紐を上野駅まで伸ばしたのは私だ
(絵描き共の変てこりんなあれこれ前説8)

仁王立ち倶楽部009(1986年3月発売)

 東京都美術館が改築されるのが1975年頃だから、1963年の都美術館といまのとでは随分違う。場所もいまの美術館の北側で、正面入口は広い石段を二階迄昇ったところにあった。美術館としての構造は単純明解で、いまのものより良かった。

 それはともかく、第15回読売新聞社主催日本アンデパンダン展の初日に行った私は、会場で高松次郎をつかまえて、彼の出品作品は紐の必然として伸 びて行かなければならず、それは当然美術館をはみ出して、国鉄上野駅に達するべきであり、そのことによって紐はレールに連結し、日本全土に至るべきだと主 張した。そして、それは作者とは無関係な紐の意志であるはずだと云った。それから中西夏之を見つけて実行計画の相談をした。私は身体があくのが次の日曜だ から、実行日は3月10日昼頃とした。赤瀬川原平の著書『いまやアクションあるのみ!』には、この高松の作品にジョイントされたものは荒縄だと書いてあ り、同じ赤瀬川の著書『東京ミキサー計画』には麻紐となっているが、このとき使ったのは荷造り紐だから、麻紐が正しい。但し誰が用意したか記憶がない。私 でなければ中西なのは間違いない。

 当日約束の時刻に美術館に行ったけど、中西が見当たらずいらいらしていたことが日記に書いてあるから、荷造り紐は中西が持ってくることになってい たに違いない。私が用意したのなら、中西を待たずにさっさとやったはずなのだ。中西が来たのは3時頃だった。高松の紐の作品は10メートルほどだから、そ れを引きずって隣の部屋迄私が伸した。赤瀬川は前掲の二著書で誰がやったか判らないと書いているが、もう時効だろう。高松の作品の先端に荷造り紐を結ぴつ けた後、美術館の入口迄紐を引っばっていったのは、いまはニューヨークにいて、糞元気な篠原有司男である。もっとも当時だって篠原はモヒカン頭で糞元気 だった。それから先は中西と私でやるはずだったが、中西が面白がってひとりでやってしまった。紐は受付のおばさんの前を通り。石の階段を降りて噴水を横切 り、木立に入ってくるくる回って、立ち話をしているひとの間を無理やり通り抜けたりして、上野駅公園口迄伸びて行った。

 ふたりで会場に戻って行ったら、早くも荷造り紐は高松の作品からはずされて、受付のところにわだかまっていた。それを又、ふたりでひっぱっていっ て高松の作品にジョイントさせてほっとしていたら高松が私を呼びに来た、面白いことになっていると云うのだ。どれどれというわけで飛んで行ったらなるほど 面白いことになっていた。

 読売新聞社が惜りている会場の最後の部屋の次は休憩室になっていて、ソファーが置いてある、そこで音楽家の小杉武久が白い布袋のなかに入ってしゃ がみ込んでおり、隣には私の敬愛するイベンター風倉匠が黒いトックリセーター、下半身ははだかという格好でヨーガ風の逆立ちをしていた。それだけなら別に なんでもないのだが、読売新聞社の展覧会の係のひとが一所懸命小杉の頭らしいところをこずいて、やめて下さい、やめて下さいと云っていたのだ。これがおか しくなくって、なにがこの世におかしいことがあるか、読売が借りているわけでもないところで、袋のなかでもぞもぞしている奴のことなんか関係ないではない か、ひょっとすると袋のなかでもぞもぞしているのが、このなかに入っている奴にとって一番休憩になるのかもしれないではないか、それよりも隣りに逆立ちし ている奴の方がよっぽど問題であって、良風美俗、法律で云えば、なんとか物陳列罪に該当するではないか、私だって逆立ちした野郎のチンポコとかキンタマだ とか、ケツの穴なんか見たくもないのである。ところが係のひとは(実は名前も知っているが)チンポコ逆立ちには眼もくれずに、小杉の頭とおぼしいところを 一心になってこずいていたのである。「やめて下さい、やめて下さい」と連呼しながら。

 小杉にしてみれば、袋のなかでもぞもぞしているということは、彼にとっての音楽演奏だから外からこずかれようとどうしようと、演奏が終らなければ 出てくるわけにはいかない。やっと小杉が出てくると、風倉も逆立ちをやめた。係のひとはあなた方は事務室に来てくれと云った。それからのいきさつについて は雑誌『形象』8号に書き、前掲の赤瀬川の書書『いまやアクションあるのみ!』に転載されているから、それを是非読んでいただきたく思う。当時私はどんな によっぱらって帰っても日記をその日のうちにつけている。状況証拠としては一番たしかだから、それを転記しておく、--おくれて事務所に中西・高松等とい けば、口論の最中にて、風倉はのこのこと行くべきにあらざりき、さんざん文句つけ、話はつかずに、仕舞いに風倉だけ美術館側に引渡すとて、染谷(読売の係 のひと)の後についていく、讐備員のみにて、美術館側責任者不在、緒局風倉が今度やるときは連絡するといいしに染谷とびつきてけりとなる。云々とある。読 売の係の染谷さんはこの事件で高松の紐のことは忘れてしまっていた。私が次に上野に行ったのは翌々日である。夕方に行くと、荷造り紐は国電上野駅公園口近 くの欅の木の根元に、もうどろどろになってうず高くわだかまっていた、前々日は寒かった。そして少しばかり雪が降ったのであった。私はその次にやろうとし て考えていることの打合せから、下見のために都美術館迄行ったのだ。当然タ方だから部美術館は締っている。私は芸大の前を通り、それからすぐそばの遠藤昭 の家に行った。遠藤は版画家だが、雑誌『形象』の編集スタッフであった。私は版画家遠藤昭に、これからやろうとしているものの版木を彫ることを頼んでおい たのだ。また日記を引用しよう。---遠藤宅に近ずけば、遠藤扉を排して出てくる処にて余に電話なりという、川仁なりき、中西の話によれば咋日紐でけが人 が出、警察が美術館に来たという。中西かわりにて電話に出、注意してくれという。篠原が上野公園をかけ廻っていたという。つまりたまたま居合せた篠原有司 男が、仕方がなくって、美術館から上野駅公園口まで延ばした荷造り紐を、回収して廻って、公園口近くの欅の根元に捨てたのであった。

 こうなると傷害事件として、紐の元の作者高松次郎に警察から呼び出しが掛るかも知れない。日記によれば翌日高松に電話を入れて、対応策について意見を申し述べている。つまり警察の事情聴取があったら、私は知らないと云えと云ったのだろうと思う。

 3月15日、これは金曜日で翌日読売新聞社主 催の日本アンデパンダン展第15回展は終幕を迎える。私には最後の駄目押しでやることがふたつあった。雑誌『形象』編集同人の遠藤宅に午後8時にいくと約束した。友人の川仁宏にもすけっとを頼んで置いた。


今泉省彦 

読売アンパンの大看板に四尺ほどの棒に刷毛をつけ「死す」と大きく書いた
(絵描き共の変てこりんなあれこれ前説9)

仁王立ち倶楽部010(1986年4月発売)

 読売新聞社主催第15回日本アンデパンダン展で。高松次郎の紐の作品を上野駅迄伸した翌日、版画家の遠藤昭宅に寄って依頼してあった版木の彫り具 合を見た。その又翌日は版木を受取っている。展覧会の最終日が3月16日の土曜日だから、その前夜にふたつのことをやろうと思っていたのだ。

 15日の夜、遠藤宅8時の約束が1時間ほど遅れた。やることの助人は、遠藤の他に川仁宏を頼んで置いたのだが、遠藤の友人でやはり画家の森田良三が話を聞いて面白がって来てくれていた。打合せを済ませると遠藤夫人も含めて総勢5人で東京都美術館に向った。

 私は四尺ほどの棒にペンキ刷毛をくくりつけたのと、油性の黒ペンキを持って出た。美術館正面石段右側に接してアンデパンダン展の大看板が立ってい る第15回日本アンデパンダン展と横書き一段に書かれてありその下に会期が小さく入り、主催読売新聞社と書いてあったと思う。その第15回日本アンデパン ダン展と書かれてある隣りに続けて、「死す」と大きく書くのがその日の目的のひとつであった。

 打合せ通り、川仁と森田はそれぞれ別の方角に散っていった。私がペンキの蓋を開けていると、「来た来た」いってひとりが戻ってきた。パトロールの 警察官のことである。そこで遠藤夫妻はアベックよろしくゆっくりと噴水の方に歩いて行った。警察官はねらい通りに遠藤夫妻につられて、噴水の方に行ってし まった。その隙に私は手早く「死す」と大きく書いた。書くためには石段と看板の二尺ほどの隙間に入らなければならない。右足を踏み込むと、ねちゃっとどぶ どろみたいなものに靴が入った。嫌な感じであった。書き終えて足元を見ると、牛の糞みたいなものが拡っていた。まさかそんなところに牛が来るわけはない が、人間のうんこにしては大き過ぎる。短靴と靴下とズボンの裾迄汚れていた。匂いをかぐとやっぱりうんこのようであった。私は人を呪わば穴ふたつかとつぶ やいた。警察官を上手にまいてきた連中は、私の字を実にいいとほめてくれたけど、ちっとも嬉しくなかった気持は萎てしまったがやることはまだあるのだ。

 私が遠藤に頼んだのは、葬式のときに街角に貼る指差しマークの版木なのだ。それで刷った300枚ほどをまいて歩かなければならない、10日に中西 がひっばり回した紐の跡をたどって、美術館の扉のところから石段を降りて、噴水を迂回して木立に入り、上野駅公園口迄丹念に置いて歩いた。枚数が少し足り ない感じであった。

 翌日は土曜で、私は昼過ぎに美術館に行った。雨であった。葬式の案内は濡れて路面に貼りついていた。看板の落書きは消されずにあった。やるときめたことはすべてやったが、はたしてどうか、心持ちむなしい感じではあった。

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 そんなことがあって、しばらくして高松次郎が逢いたいと云ってきた。何故だか忘れたが、高松と武蔵小金井で逢った。彼は武蔵小金井駅北口の東側の 風景を谷内六郎の世界だなあと云って眺めていた。高松の話は、自分と中西・赤瀬川でハイ・レッド・センターという結社を作るということであった。そして、 その理論面を担当して欲しいというのであった。私がどう返事をしたかはっきりしない。当時の私は充分に生意気だったから、協力はするけど、一緒にはやらね えよぐらいなことは云ったのではないかと思う。高松は軽率な男ではないから、3人の間で話が出て、合意の上で私に逢いに来たのだろうと思う。この時期の私 は、それが不思議でないほど、濃密に彼等とつきあっていた。

 私の日記はいかんながら3月16日を期にとだえているから、それ以前しか分らないが、1962年から63年にかけて、ほとんど連日この3人のどれ かと電話か逢うかしている。勿論雑誌『形象』の編集上の間題もある。赤瀬川の著書『東京ミキサー計画』では、雑誌『形象』の編集権を3人に渡されたと書い てあるが、そこまではしていない。君等が好きなように使っていいと云ったのが、そんな風に聞えたのかも知れない。いずれにせよ、雑誌『形象』8号の編集人 は私である。この号は山手線ひと回りだったはずの行為の総括座談会残り半分と、高松の「“不在体”のために」、赤瀬川の「スパイ規約」、音楽家刀根康尚の 「CRAPPING PIECE」、やはり音楽家の小杉武久「ANIMA 1-2、その他」、そして私の第15回読売アンデパンダン展でのいきさつのレポート。更には赤瀬川の作品として千円札模型、中西の作品としてポケットライ ブラリー、高松の作品として1メートルほどの木綿の紐がとじ込まれている。表紙は赤瀬川である。彼等は確かに編集に協力した。刀根や小杉が原稿を書いたの は彼等からの要請であることは間違いない。高松にしても、赤瀬川にしても、自分の文章が印刷されたのは始めてではなかったか。

 この号はとっくに出来ているはずだったが、なにやかやで遅れて、読売アンパンに間に合わなかった。それで第15回読売アンパンでの騒ぎについて書 くことになった。赤瀬川の千円札も試刷りがうまくいかなくて、何度も色を変えて刷った。最後にクラフト紙にダークグリーンでやったのが当りで、それをはさ み込むことにした。ヤレが何枚となく出来たので、赤瀬川は都美術館の読売アンパンでばらまいたのである。この印刷の際、私は赤瀬川と印刷屋との間に立った タイプ印書の女のひとにうそをついた。「太丈夫かしら」と云うから、警察とは問題ないとおごそかな顔をして云い切ったのだ。なにしろ雑誌『形象』は500 部しか作らない。売るといったって特定少数の人の手にしか渡らない。そしていつも半数以上手元に残っていたのだ。もし使われたらその方が面白いのだし、 ひょっとして問題になっても依頼人が警察の問題はないと保証したということが証言としてあれば、印刷屋は起訴されないだろうし、されても無罪に違いないと 私は思っていた。なにしろ印刷しないことにはそれから先がないのだ。しかし周知の千円札裁判で印刷屋は有罪になってしまった。でもこれはまだ後の話であ る。

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 ハイレッドセンターは『第五次ミキサー計画』をもって旗上げした。新宿第一画廊である。赤瀬川が最初に千円札を使った案内状を作ったコラージュ展 『あいまいな海』の会場である。1963年5月であった。理論面を担当するかも知れなかった私には相談がなかった。この展覧会についても、赤瀬川の『東京 ミキサー計画』にくわしいから読んで欲しく思う。ともかく私はこのハイレッドセンターの旗上興行を賛成出来なかった。


今泉省彦 

誰の頭も撹拌しない『第五次ミキサー計画』はH・R・Cの見本市にすぎぬ
(絵描き共の変てこりんなあれこれ前説10)

仁王立ち倶楽部011(1986年5月発売)

 ハイレッドセンターは、正体不明な事件を、すぺてハイレッドセンターの仕業としてとり込むことにおいて、みずからを正体不明にしようと目録んでい た。そのことのために、私の考えと、彼等の考えとの違いが不分明になってしまったのはいなめない。あるいはそこのところでからくも私との接点があったのか も知れない。旗上げである以上、『第五次ミキサー計画』と云うのは妙なわけだが、近くは第15回読売アンデパンダン展の正体不明の出来事、山手線での出来 事のみならず、草加次郎の事件までハイレッドセンターの仕業だと彼等は云いたいのである。当時、電車の網棚に爆弾が仕樹けられて爆発事件が頻発した。その 犯人が草加次郎と名乗っていた。そしてこれは迷宮入りのままなのである。この草加次郎の無差別殺傷に共感するのではなく、草加次郎という無名性と、その意 図の不明性が、ハイレッドセンターという匿名性と、なんのためにという目的を明示しない、あるいは持たないというところで重さなると考えたのであって、そ のかぎりではこんにち、愉快犯と云われる部類に整理されるようなものであろう。事情に通じていた美術評論家中原佑介が、この第1回目の発表『第五次ミキ サー計画』にあたって、「彼等は愉快な陰謀家共であって」と書いたのは、気持がすっきりするからというだけの理由で、放火したりする連中を、愉快犯と云う ようになる先鞭を付けたものだと云えるし、又、ハイレッドセンターの本性をいちはやく見抜いていたとも云える。

 ところが世間を撹伴し、価値観を混乱させる。いはばカオス的状況をハイレッド現象と考える立場では「愉快な」連中では困るわけで、彼等は早速、中原の紹介文を改鼠して「彼等は不快な陰謀家である」とやった。

 彼等のやることが、ハイレッド現象の一部分であるにしても出自が絵描きだから、従来の美術状況に対する反応がヴィヴイットであり、そこの部分で匿 名性も出てくるので、彼等がいかに個人名を出さなくても、ハイレッドセンターとは誰々のことかが分ってしまうということがあって、あいつ等ひょっとすると 爆弾ぐらいやってのけやしないかと思わせたくもあったろう。

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 『第五次ミキサー計面』は1963年5月新宿第一画廊で開催された。コーナーを3つに分けて、高松次郎はロープや紐のたぐいを各種、壁に掛け並べ ていた。赤瀬川原平は終ったばかりの読売アンパン出品作品のほかに、一人用ソファーの梱包だとか、原寸大千円札一色刷りをパネルにびっちり貼って、一枚一 枚を油焼きで黒光りする太いボルトで止めたもの。そして拡大千円札を作るための、模様研究データなどを並ぺた。中西夏之もやはり読売アンパンで並べたよう な洗濯バサミによる作品。そして床面スペースの中央に洗濯バサミ製造のケトバシが据えられていて、一回幾らだか忘れたが、けとばすと洗濯バサミがプレスさ れて、それと一緒に天井から鶏卵がひとつ落ちてきて、中西の卵型プラスチックオプジェにぶつかって割れる仕組みになっていた。椅子に坐ってケトパシをやっ ているひとの背後で、卵がガシャっと割れるのだからなかなか面白かった。

 オープニングパーティのコーナーがあって、壁に鎖でつながれたジョッキがおいてあり、展示会場にジョッキを持って入ることが出来ないようになっているのも面白かった。彼等の三人展として見るかぎり、アイデアに富んだいい展覧会であった。

 私はだけど不満だった。いやしくもハイレッドセンターである。紐はどこまでものび、物にからまり、あるいはしばり上げたりするものではないか、梱 包意志とは、あらゆる物を包んでしまう考えではないのか、洗濯バサミはどんどん増殖していって、すべての物品の表面をうめつくさなければおかしいではない か。これら3つの物達は作り手の意図を越えて存在を主張するのであって、こういう物達の自己増殖性に3人は従うぺきだと思った。お互いにコーナーを分け あって、仲良く共存した屋覧会など意味がない、芸術でもへちまでもなく、事件であり、ひとを惑乱することがハイレッドセンターの意味であってみれば、誰の 頭も撹拌されないこの展覧会は、ハイレッドセンターの見本市みたいなものだ。私は彼等にそう云った。そして、これは見本市として、それぞれの物品のおのず からの意志にまかせてこれらがどうなって行くかという計画を立てるべきだ。それがよしんば君等の手によって案行されるのではないとしてもだと。川仁宏も同 意見であった。 

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 そしてある日、私はハイレッドセンターから一通の手紙を受けとった。私と川仁宛であった。その文面は次に掲げるものである。

「今泉省彦様 川仁宏様
作品として扱われようが、証券として扱われようが、作家から離れてしまったからにはそのものの運命にまかせるべきだという意見をもとにして、我々の作品(行動を合むか?)を要望されたあなた方に、

3.5メートルの紐 45000mlの梱包 15000ケの洗濯バサミ
但し完成品50ケ、残りはお貸しする機械とアルミ材で製造して頂く。
をお貸しいたします。

 あなた方が何の為に我々に期待し、何にそれら3種の物品を使用されるかは最早我々には関係のない事でありますが、1本の万年筆には、製作者による 使法が内包されているにかかわらず、ある状況に於いては鍵をこじあける事に使用されてもいたし方ありませんし、又1枚の銅版画を、ある状況に於てトイレッ トペーパーとしても、そのものにとってはよろこばしいことかも知れません。しかし梱包作品を燃やして、躯を暖める為には5月の気温はあまりにも高すぎま す。

 勿論あなた方はそんな無理をしてまで、我々が提示した空間からそれ等の物品をひきずり出そうとはしますまい。我々はセンターがかって使用し、ある 状況を提示した「紐」「梱包」「洗濯バサミ」が、今度あなた方の作った状況の中でどんな風に泳いでいくか、遥か離れた処でみまもっておりましょう。
高松次郎 赤湖川原平 中西夏之」

 これならいいのである、いかにもハイレッドセンターらしい対処の仕方だと云うべきだ。赤瀬川原平著『東京ミキサー計画』には、「これは美術的範疇 の特殊空間から一般空間への接続を示すことで、ハイレッド・センター・オブジェにあるエネルギーの自律を露骨化するため…」とある。そしてハイレッドセン ターのそれからの計画はおおむねこの方向で動いて行った。


今泉省彦

H・R・Cは私と川仁に一方的に『物品贈呈式』通告してきた
(絵描き共の変てこりんなあれこれ前説11)

仁王立ち倶楽部012(1986年6月発売)

 ハイレッドセンターの新宿第一画廊での『第五次ミキサー計画』に対する、私と川仁宏の批判に、彼等は彼等の物品を貸与するということで応えてき た。高松次郎の紐、赤瀬川原平の個包、中西夏之の洗濯バサミである。そして、後の内科画廊、当時はまだ画廊ではなく、宮田内科クリニックの、主を亡したガ ランドウのスペースで、私と川仁にそれら物品を貸与する『物品贈呈式』をやると云ってきた。これはハイレッド通信という形で、あちこちに送られていた。

 私は川仁と連名ですぐに返事を書いた。

 「兄等のやりくちについて、矯激な期待を抱くものとしての吾々に、兄等が抱く、矯激、かつ、邪気にみちた期待を盛り込んだ通信とともに、川仁宅、 今泉宅に、ふりわけて送達されたものは、おのおの目録にある処の数宇のピンチ・紐・梱包であって、1.8平方と、4.2平方の川仁宅、今泉宅に、別々にあ るところのそれは、目録中の数個を二倍にしなければならぬのであって、日常生活上、若干のピンチと紐とは、なにかと便利であるにしても、洗濯屋じゃあるま いし、紐にしたって、ピンチにしたって、こんなに持っていたところでどうしようもないのである。ましてや梱包にいたっては、はなはだ迷惑であるといわなけ ればならない。元来、貸与、借入は甲・乙双方の合意の上に立たなければならないのであって、この一方的に送達された物品について、吾々はハイレッドセン ターとなんの契約も結んでいないのである。或る日、不意に吾々を襲ったこれらの物品に対する兄等の考えは、即ち、吾々と負けず劣らぬ狭小を容積の部屋を持 つ兄等が、いささか古く、その故に嫌気のさしてきたこれらの物品の置場に困っての窮余の策ということではないかとさえ思うのである。兄等の通告によると、 それは5月29日午後6時新橋宮田内科と指定されているが、こういう、吾々の日程、時間繰りを勘案しないスケジュールに従う考えを吾々は持っていない。今 後、第六次ミキサー計画の名のもとに発表される写真資科その他のスキャンダルは、いかんながら吾々の貸与された物品によって、吾々がやったことではない。 ハイレッドセンター構成メンバーの可能性についてある種の矯激な期待を持つこと、プロデュースの用意があること、及び兄等の物品を第三者にゆだねてみては どうかという意見を持つことについては、ハイレッド通信にある通りである。ひとつひとつの期待、用意、意見の発する条件を勘案の外におけば、それはハイ レッド通信風の行動よる依嘱になるだろうことも了解出来るところである。しかしながら兄等への矯激な期待は状況論と触れ合っているのであって、そもそも新 宿第一画廊の第五次ミキサー計画はなくもがなだと吾々は考えるのである。では何故兄等がくたびれたからやりたくないといった処の第六次ミキサー計画をやれ といい、それを第三者にゆだねよといったかということになるのであるが、それはそもそも、第五次ミキサー計画はギャラリー風の、第六次計画のための資科展 示という片輪の生れであって、兄等のいう第六次計画と対にならなければならない運命を荷い持っているが故に、その実施時期がどうであろうと、やめてはなら なかったのであり、兄等がくたびれてしまったのなら、第三者にゆだねるという方法があるではないかということであるのであり、その場合の第三者とは、吾々 のように、それが半端であろうととにかく、兄等のもくろみを承知している処の第三者のことではないのである。兄等がこれらの物品に内蔵していると認めた展 開力は兄等がこれらに内蔵せしめたのであって、吾々がその方程式に従うと、従うまいと、いずれにせよ、兄等の方程式に束縛されるのであって、この種のアダ プテーションは吾々にとって無駄な実験であるはずである。これらの物品をゆだねるべき第三者は、兄等が内蔵せしめた展開力の方程式に予断を持たぬものでな ければ、第三者の手による展開というもくろみは成立しないであろう。にもかかわらず、兄等の方法が状況を得て生きる時期があるだろうという考えは捨てては いないのであって、そういう時期を読んだとき、吾々はあえてそのプロデュースを買って出るものである。

 貸与が何故贈呈になるのか不可解ではあったが、それはともかく、以上のように物品受領拒否の通告を、贈呈式以前にハイレッドセンターに渡したので ある。しかるに物品贈呈式は強行され、しかも私達の拒否通告は握りつぶされたらしく思われる。私と川仁は当然のことながら、出席しなかったから知らないの である。

 その日、私は銀座通りに面した骨董屋の二階の銀座画廊で開かれていた、彫刻家小畠広志達のグループ展『刊』を観に行って、物品贈呈式の始まる時刻 には、このグループ展のメンバーと美術評論家三木多聞とで、どこだったか、ビルの屋上のビアガーデンで生ビールを飲んでいた。新橋の宮田内科は指呼の間に あった。話がとぎれるとそっちの方に視線が行くのであった。川仁はそのときどこにいたのだろうか。

 近年日本の六〇年代美術の動向について関心がたかまってきており、私に本誌で紙面をあてがわれるのもそのあおりだと思うが、東京国立近代美術館で の展観を皮切りに、東京都美術館、デュッセルドルフと続き、さらにはボンピドー美術館と、日本六〇年代美術展が立て続けに開かれる。そのたびに高松の紐、 赤瀬川の梱包、中西の洗濯バサミが展観される。私は面白いから彼等に出逢うとからかうことにしている。吾々が拒否したにもかかわらず、一方的に受け取らさ れた物品を、吾々に無断で展示するとはけしからん、と。とはいえ彼等と仲違いしたわけではない。翌年の帝国ホテルでの『シェルタープラン』(1964年1 月26~27日)、銀座での『首都圏清掃整理促進運動』(1964月10月16日)に川仁は参加している。この首都圏清掃のときは、私に清掃団長をやって くれと云ってきた。もっともらしい顔をした奴がいた方が格恰がつくと思ったらしい。私はやあだよと云った。

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 話を少し戻さなければならない。まだハイレッドセンターが発足する前である。犯罪者同盟の大隈講堂での騒ぎがあってからしばらくたっていた。或る 日、同盟の平岡正明か宮原安春か忘れてしまったが、波等の機関誌『赤い風船もしくは牝狼の夜』を、単行本風にして出したいから、相談に乗ってくれと云って きた。この機関誌は、それまで藁半紙にガリ版刷りで、ホッチキスで簡単に止めたものだったのである。多分新宿の喫茶店でこの2人と逢って話を聞いたのだと 思うが、印刷上のあれこれ、絵描き達にも協力してもらいたいこと、そして私の文章も欲しいというようなことであった。大隈講堂での美術家共の振舞いが、彼 等に強烈な印象だったのだろうと思う。私はさしあたって書きたいことを持っていなかったので執筆は断ったが、印刷屋と絵描きの紹介はしてやった。それがあ とで妙なことになったのである。

 

今泉省彦 

犯罪者同盟員の万引きが原因で赤瀬川千円札裁判の幕が切って落とされた
(絵描き共の変てこりんなあれこれ前説12)

仁王立ち倶楽部013(1986年8月発売)

 平岡正明から、彼等の犯罪者同盟機関誌『赤い風船あるいは牝狼の夜』を単行本化するにあたって相談があったのは、1963年の春だった。絵描きを 紹介しろというので、赤瀬川原平・高松次郎・中西夏之には電話で、糸井貫二と吉岡康弘には手紙で、それぞれ作品依頼をしてやった。印刷屋は、その頃私を含 めて4人ほどでやっていた美術同人雑誌『形象』の印刷を請負ってくれていたひとを紹介した。赤瀬川原平の千円札模型の印刷を頼んだのと同じひとである、絵 描き達は中西を除いて作品を私宛に送って来た。赤潮川は千円札の聖徳太子の部分を拡大した写真と、総理大臣池田勇人の写真にハイレッドセンターの!印を赤 のスタンプインキで押したもの、糸井はトルコ帽みたいなのをかぶった裸の髭の男が片膝立ちの横向き写真、高松はマルクスだかレーニンだか忘れたが翻訳本の 頁の活字をペン線でたどったもの、そして吉岡がこれも又写真で、裸の人間を山と積み上げたものと、男女性器の部分をやたらに拡大して、一見なんだか判らな くなったものなどであった。これがいつ刊行されたか分明でない。私の手元にあった一冊を、誰かが借りていったまま返してこないからである、『美術手帖 1972年4・5月号』に『年表・現代美術の五十年』ということで連載されたものは、この手のことをしらべるのに便利なのだが、これには発行日が8月15 日となっている。私が絵描き共の作品を平岡達に渡したのが5月だから、まあそんなことかも知れない。出版記念パーティが新宿のどの辺だろうか、地下のバー を借り切って夜通しだった。赤瀬川・高松・川仁宏、そして私も出席した。吉岡も来ていたが、その折りが吉岡との初対面であった。犯罪者同盟の面々とのつき あいもいい加減かったるくて、赤瀬川・川仁・高松と駅に向ったがシャッターが降りていた。仕方がないので会場に戻ったら、女以外は皆上半身裸になって踊っ ていた。赤瀬川・高松・川仁はやけになって皆と同じスタイルで踊り出した。私はそういうことが大嫌いなので隅のテーブルで酒を飲みながら時計ぱかり眺めて いた。電車の動くのを待っているのである。当時住んでいたのは国立で、駅を出たのが5時か6時頃でもあったか、よく晴れたさわやかな朝であった。

 この『赤い風船あるいは牝狼の夜』が司直の手に落ちたのは同年11月であった。同盟員諸富洋治が高田馬場の書店で万引をやりそこねて、戸塚警察署 に連行され、所持品検査の際に、この本を見付けられたのである。吉岡の写真でこれはエロ本だと判断したことになっているが、戸塚署が早稲田の犯罪者同盟の ことを知らないはずがない。当時の警視総監が年頭訓示で思想的変質者の取締強化を唱えているのだから、この機会に犯罪者同盟を洗ってみようと思ったに違い ないのだ。戸塚署は奥付表記の編集者宮原安春と、諸富の自供で浮び上った平岡正明にガサを掛けた。まず寝込みを襲ったのが宮原宅で、アバート住いの彼は同 棲中の女と寝ていたのであった。宮原は逮摘され、急を聞いた平岡は風を喰らって逃げた。そして宮原の部屋から赤瀬川の千円札作品が出てきたのであった。宮 原は拘留期間を黙秘で通した。しかしながら、奥付には印刷所も明記されているから当然そこも急襲された。困ったことに、そこは赤瀬川の千円札を刷った印刷 屋であった。従って千円札印刷用の原版を押収されることになるのである。『赤い風船または牝狼の夜』は、一般の春本の類とは異って、芸術的意図によるもの であり、まったく営利目的を持たないものだから、刑法175条違反事例には当らないということになって、起訴猶予、吉岡の写真だけ削除せよということで押 収された本も全部返えってきた。ところが収まらないのが赤瀬川の千円札であった。宮原が拘留期限切れで出てくると、平岡が自首した。たいしたことにはなら ないと分った以上、あることないことしゃペりまくって警察を惑乱させようと思ったのだろう。そんな訳で警察は舞台廻しの今泉という奴のことを知ったのだっ た。ガサを喰った印刷屋は私を知っていない。そこは下請なのだ。だから元請のひとが任意出頭で呼ばれて事情聴取を受けた。もうそのときは偽造千円札の間題 だから、戸塚署の手を離れて、警視庁に移っていた。折りも折り、偽千円札チ-37号が迷宮入りしようとしている時期だから、それとの関連の有無は警視庁の 重大関心事であったろう。元請さんは今泉とはどういう男かということをしつこく聞かれたそうである。元請さんはすぐに私に連絡してきた。どこに住んでいる のかって聞くから、いつも向うから電話が掛ってくるので、どこに住んでるのか知りませんって云って置きましたよ、どんな仕事をしているひとかって聞かれた から、よく知りませんけど、たしか電通だって云ってましたよ、どうせ又電話してくるから、おたくで探しているって云いましょうかって云ったら、向うは、い や、いい、吾々がやるから余計なことはしないでいいと云われましたよという話であった。多分警察は電通広告社で今泉を探したのだろうと思うが、あいにく私 は電通は電通でも電々公社で働いていたのであった。そして当然赤瀬川のところにも刑事が来た。1964年1月であった。こうして私を見付けないまま、赤瀬 川と印刷屋は地検送りとなった。起訴はさらに翌年の11月である。つまり警察官が赤瀬川の作品を発見してまる2年経っていた。処分保留のまま放置されてい たのだから、もう事件にならぬまま立ち消えたと思っていた矢先であった。罰条は「通貨及証券模造取締法第一条・第二条」及び「刑法第六〇条」である。「通 貨及証券模造取締法」とは、これらを使う目的でなくっても、まぎらわしいものを作ったり売ったりしてはいけないということであり、「刑法六〇条」は共犯を 正犯とみる条項であって、これをもって印刷屋を赤瀬川と同罪と考えるわけであった。

 赤瀬川は弁護士の知り合いがなかったので、国選弁護人を頼むことにしたのだが、川仁がそれを聞いて、いいひとがいるから紹介すると云った。それが 杉本正純弁護士である。杉本は当時、新左翼系の公安事件を片っばしから無罪にしていて、はなはだ令名の高いひとであった。赤瀬川と私は現代思潮社という出 版社に川仁を訪ねていった。川仁はそこで企画部の次長をしていた。連れられて行ったのは、杉本の所属していた三原橋法律事務所であった。彼が云うには、こ れは対処の方法がふたつあって、いっさいの権力による裁判を認めないということで取調べにも応じない。公判にも出ないという手がひとつ、もうひとつは裁判 のなかで無罪を主張することなのであった。私の考えは赤瀬川によるこの種の作品行為を保償することだったから、模造罰則と憲法の思想表現の自由条項とのど ちらが優位するかの議論にするしかないと思えた。


今泉省彦

今泉を証人に立てると、赤瀬川の千円札が偽造容疑になると杉本弁護士が、おどかした
(絵描き共の変てこりんなあれこれ前説13)

仁王立ち倶楽部014(1986年12月発売)

 赤瀬川原平の表面一色刷り写真製版の千円札が、通貨及証券模造取締法にもとずいて起訴され、辨護士杉本昌純と相談した結論は、思想表現の自由とい う日本国憲法の大前提に照して、これはあくまで芸術表現でありその自由は保証されなければならないということと、通貨として流通に投込むことが出来ないに きまっている模造品を取り締まるこの法律は、明治政府が、幕藩体制下で各藩ごとに発行されていた藩札を押え、新政府発行通貨だけを全国に強制流通させよう という意図のもとに立法されたものであって、(事実、政府発行通貨の信用は、藩札にくらべてきわめて低かった)こんにちのごとき政府独占通貨流通の時代に いくら現行刑法として生きていても、立法の趣旨を無視して適用させるのは公訴権の乱用だということであった。この辨護士と逢ったのは、日韓条約反対闘争の 山場の日であった。この日韓闘争を契機として、急速に勢力を伸した反戦青年委員会と、三派全学連が、衆議院議員面会所に突入するという情報が流れていた。 赤瀬川・川仁宏と私は、辨護士と別れると野次馬になりにいった。

 

 議員面会所前の道路にデモ隊が坐り込み、先頭部隊は機動隊と対峙して立ち上がっていた。最前列は蒼ざめた顔で、横倒しの青竹を握ってのけぞってい た。この先頭部隊は、その頃最強をうたわれた三多摩反戦の面々だったらしい。議員面会所入口には、社共両党の代議士諸候が大きなタスキを掛けて、坐り込ん でいる連中にではなく、その向こうを通過していく総評傘下のデモ隊に、にこやかに手を振っていた。

 赤瀬川と川仁は、向い側のコンクリート塀の上に腰掛けて見物していた。そこは見物人で鈴成であった。私はデモ隊と機動隊の対峙している間をぶらぶ ら通り抜けた。機動隊の先頭は盾を持たずに、中腰になって、膝に警棒を握ったこぶしを置いて、命令一下、中腰のバネを効かして躍び懸る姿勢であった。3 メートル間隔で並んでいる警察官の警戒線を出たり入ったりして見物していたら、三度目にはとうとう警察官に声を掛けられてしまった。電々公社の社員だか ら、普通の顔をしているし、ひげも伸してはいない。ネクタイを締めてよれよれのレインコートを着て、眼付きが悪いときているから、しばらくは仲間かも知れ ないと思っていたのだろう。「失礼ですが、どちらさまでしょうか」、まさか野次馬ですとは云えなかった。そのうち野次馬の一勢排除が始まった。「通行人を 公道上から排除する法的根拠は一体なんだ」なんてほざいても駄目だった。無闇に押しまくられて、赤瀬川・川仁ともはぐれてしまった。

 そして地下鉄のなかで思案した。機動隊の戦闘力を一時的に麻痺させる妙案が浮んだ。ヘルメットの顔面防御用のプラスチックマスクを降ろして一列に並んでいるのだから、その前を速乾性のスプレー塗料を吹き付けて走り抜けるのはどうか。

 議員面会所突入は陽動作戦で全学連の諸君は東京駅八重洲口であばれていた。

 翌日から、裁判対策の委員会作りが始った。第一回の会合は12月に目白にあったモダンアートセンター・オブ・ジャパンでだったと思う。誰に出席し てもらうかについては、川仁と赤瀬川で相談してきめた。私は雑誌『機関』10号の編集に全力を傾けた。なにしろこの事件を特集しなければならない。『機 関』とは、雑誌『形象』を9号で改題したものであって、『形象』『機関』を通して、これほど早く編集を終えたものは他にない。赤瀬川が起訴状を受けたのが 11月1日、『機関』10号の発行は1966年1月31日である。実際は3月に入っているとは思うが、わずか4ケ月あまりで発行するなんていうことはかっ てなかったことであった。

 この特集号の事件関係の目次は以下の通り。東京地検の起訴状、警察官調書2通、押収品目録2通、機関編集部による「事件の経過と見通し」と題する 文章(これは私が書いた)そして赤瀬川本人による「行為の意図による行為の意図---法廷を通過する前に---」と題するエッセーである。ここでの私の記 述によると、66年1月10日に千円札事件懇談会が発足したとある。参加メンバーは現在のところ、瀧口修造・中原佑介・針生一郎・三木多聞・ヨシダヨシエ と、杉本辨護士、ハイレッドセンターならびに機関編集部数名である、と書いてある。対策委員会とか対策会議としなかったのは、辨護人の臨機応変の対処をし ばらないことと、いずれにせよ忙しいにきまっている参加メンバーの日程ぐりで、事務局がいらざる苦労をしないようにという配慮であり、実際に会議を開くた びにいろんなひとが出入した。上記メンバーのなかで、懇談会のたびごとに必ず出席したのは、被告・辨護士・事務局員・ハイレッドセンターを別にするなら ば、瀧口修造、針生一郎、中原佑介、ヨシダヨシエではなかったか、このヨシダヨシエのやっていたモダンアートセンター・オブ・ジャパンが連絡事務所とな り、その後、ここがなくなっておぎくぼ画廊に連絡場所を移したと記憶している。事務局長には川仁宏を選任した。その後の懇談会には、評論家石子順造・大島 辰雄・東野芳明・音楽家刀根康尚等が毎回出席したと思う。事務局員は私、遠藤昭、佐藤和男、共に雑誌『機関』の編集員であった。懇談会会場はもっぱら三原 橋法律事務所か事務局員佐藤和男の紹介で湯島会館を使った。お茶の水駅を降り聖橋を渡って、東京医科歯科大学の北側にあった。こまかいことを書くのはこの スペースとして適当でない。赤瀬川の『オブジェを持った無産者』現代思潮社刊を読んでいただきたい。赤瀬川の事件対処の考え、公判での辨護人辨論、特別辨 護人の意見陳述、主要証言などが含まれて、本事件に興味を持つひとの必読の書である。

 辨護側証人申請は地裁段階で18名、高裁で3名。懇談会メンバーも総出で証人台に立った。出なかったのは私ひとりであった。今泉はどうするんだと 誰かが聞いた「いや、このひとは不味いんです」杉本辨護士はそう云った。今泉を出すと模造が偽造容疑に変る怖れがある。最高刑は終身刑だぞとおどかした。 こんなもんでまさか終身刑になんぞなりはしないが、求刑が厳しくなるのはたしかで、執行猶予なしの実刑判決の可能性が出てくると云うのだ。そんなわけで徹 頭徹尾今泉を隠すということになった。問題は私が編集した雑誌『形象』8号に綴じ込んだ千円札の、のど元に打たれたミシン穴であった。この切り取り線は千 円札を使うことをそそのかしていたからである。


今泉省彦

スリやカッパライと同断の刑事事件として赤瀬川千円札裁判を考えよと八百長、工藤(=今泉)は言った。
(絵描き共の変てこりんなあれこれ前説14)

仁王立ち倶楽部015(1987年4月発売)

 赤瀬川原平の千円札作品にかかわる、通貨及証券模造被疑事件の第一回公判は1966年の8月だったが、それに先立って新宿の椿近代画廊で裁判資金 集めの『現代美術小品即売会』を開いた。7月である。そしてその前日に、同じ画廊で事情説明会をやった。5、60人も集っただろうか、どうせ時間を作って も、ろくに質問は出なかろうという、事務局の読みで、聴衆にあらかじめ紙をくばって置いた。回収したら面白い質問がひとつ混じっていた。大意はこうであ る。表現の自由の問題として、赤瀬川は無罪だという主張のようだが、芸術表現として人を殺した場合、やはり表現の自由を主張し、無罪だというのか。私はこ れは面白れえとほくそえんだ。こういういじわるな質問をするのは誰だろうと見回した。宮川淳が最前列に長いあごをぶらさげて坐っていた。無記名で頼んだこ とだから、彼だったかどうか私は知らない。

 或る日、やはり千円札懇談会の帰りに赤瀬川と川仁宏、そして私とで喫茶店に坐っていた。私はそういうときは酒を飲みたいのだが、懇談会事務局長の 川仁宏は下戸だし、赤瀬川はその頃酒が弱かった。「どうもすっきりしねえな」と3人とも思っていた。ジャーナリズムはひとわたり記事にしているし、8月公 判迄のはざかいをにぎやかしになにかないだろうか、川仁はそのころおぎくぼ画廊を使って映画会をやる気でいた。資金集めとアピールである。私は八百長投書 をしようと提案した。ふたりの同意を得てから翌日『日本読書新聞』編集部に電話を入れた。相手はいま北冬書房をやっている高野慎三だったと思う。OKを 取ってすぐ原稿を送った。『死した芸術は裁けず』(工藤晋・公務員30歳)としてくれた。なんで工藤晋なんだと高野に聞いたら、なにしろ晋という名前が好 きなんだそうで、晋という字に工藤という姓がなんとなく合うからだそうであった。なるほどその後彼は漫画評論をやるにあたって権藤晋というペンネームを名 乗った。

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 一昨年の朝日新聞報道以来、どうせ人ごとでもあるが故の野次馬風も少々まじるにしても、赤瀬川氏の事件対処の推移について、とりわけ、いささか昨 今影が薄くみえるとはいえ、ハプニング、イベント、ポップアート等、芸術一元論理に近いリアリストの生活対処の指針測定のためのモデルタイプとして注目し ていたのであるが、いわば、赤瀬川おまえもか、といった感懐を禁じ得なかった。

 私の考えによれば芸術は死んだのであるが、千円札事件懇談会みたいにまだ生きていると思う奴がいるなら、私の理論構築上、そいつらは芸術幻想を後 生大事に抱いてるに過ないということになるのであるが、こいう神経症末期の荒廃した連中は、ただ寒空を眺めてしゃがんでいるだけというきわめて衛生無害な しろものであって、その勝手な夢がどうであろうと、社会秩序を犯すことなく、法の側から相手にしてもらえなかったのである。「一般論に還元した」場合に 「芸術は裁かれるべきではない」ということは、それらが裁くに値しないからこそ、例えば裸婦の陰毛が黒々と描かれていても、高度に芸術的であるという理由 において、すなわち、きわめて無害であるが故に不問に付されていたという事実の裏返しだと理解しなければ、赤瀬川氏がとりわけて裁かれるに至るその意味が 消えてしまうのである。赤瀬川氏の問題は芸術一般に還元すべきではない。

 声明文によれば「取調べ検事は執拗に赤瀬川氏の意図を問い」「われわれもまたそれを問うている」そして「えらんで赤瀬川氏の場合を事件化したもの の真の意図を問い返さねば片手落ち」だという。私には声明文全体の論脈、なかんずくこの引用個処からして、懇談会は赤瀬川氏は衛生無害だから見逃してくれ ればいいのに検事さんあんまりだと、愚痴をこぼしているという濃厚な印象を抱くのである。

 赤瀬川氏の模型千円札がそれでは法をもって維持されているところの社会秩序にとって危険であるか、模型千円札がひっそりと展覧会場に収まっている かぎり、それはなにものでもない。ハイ・レッド・センターの中西夏之氏の洗濯バサミが密集してタブローとなっているかぎり、あるいは高松次郎氏の紐の作品 が展覧会場内でとぐろを巻いているかぎり、それは無害である。それが危険なものに変わるのは、作家の内心の意図の一端でもあり、同時に作品自体の意図でも ある、人の手から人の手へと中継されながら増殖し、芸術なんぞという痴夢とは無縁の人々まで巻き込んでいく流通過程に、作家の手を離れて拡がる可能性を持 つが故である。

 裁判対策はいずれ原則論と運動論との微妙なかね合いに触れながら立てられなければならないが、法に触れるところまで結局は行きつかざるを得なかっ た芸術のありようを、逆に法に触れることを恐れぬ加害者としての前衛に置き換えて行く論理の欠落を、私は千円札事件懇談会に指摘したい。そして赤瀬川氏の 栄光のためにはむしろ、お祭り騒ぎなんかなしにして、スリやカッパライと同断の刑事事件として人知れず裁判を通過すべきだったと思うのだ。

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 これは7月25日号に載った。その直後の懇談会でこの投書のことが話題になった。美術評論家の石子順造が、これは真面目な批判だから、懇談会とし てちゃんとした対応をすべきだと云った。同じく美術評論家の中原佑介がちょっといじわるな顔をして「今泉くんがやったら」と言った。「えっ、おれが あ……」いくらなんでも自分が書いたものである。しばらく考えた。そうか、自分で書いたものに自分で反論するのも悪くないな、どうせ賑やかしに仕掛けた罠 ならば、自分で落ちたところでどうっていうことはないと思った。そして、なにより、あんまり固辞すると、問いつめられて自分が書いたと白状しないわけには いかなくなりそうであった。中原は私の仕業だと見抜いていたに違いないのだ。「いやあやるよ」とは云ったけれど、やっぱりどうも面白くない。私の投書に私 が反論すればそこで終ってしまう。続けなければ意味がないのだ。

 翌日、懇談会を欠席した高松次郎に電話した、「読書新聞の投書読んだか」読んだと云った。「あれは真面目なちゃんとした議論だし、懇談会としてき ちんと対応すべきだということになったんだけど、君、書かないか」ほかに誰かいないのかと聞くから、今泉が書けということになったのだけど、君の方がいい と思うと云った。高松はしばらく考えてから書くと云った。


今泉省彦

千円札模造と殺人との間に表現の位相差はないのだと私は高松次郎に答えた
(絵描き共の変てこりんなあれこれ前説15)

仁王立ち倶楽部016(1988年5月)

 日本読書新聞の工藤晋こと私の八百長投書に対する返事は、同紙1966年8月8日号に載った。高松次郎である。高松は私が書いたとは知らないか ら、彼の返事は八百長ではない。『限りなき問いのために-工藤晋「死した芸術は裁けず」にふれて』とタイトルされている。この手の文章は掲載紙と共に消え てしまうものだから、この際全文お眼に掛けて置く。

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 7月25日号、本欄、工藤晋の投書に対し、ハイレッド・センター及び、千円札懇談会の一員としてお答えしたいと思います。しかし、この一文は決してそれらの集団の統一的意見ではなくあくまでも私個人の考えであることを前置きしておきます。

 工藤氏の論旨を要約すれば、次のようなことだったと思います。今日、芸術はすでに死滅しており、そういうことをも実証したはずの赤瀬川の活動に対 して千円札事件懇談会は、死んだはずの芸術をひきずりだし、その名のもとに法に対処しようとしている。それは、法に触れるところまでいかざるを得なかった 「芸術活動」のポイントを棄却してしまっているのではないか。大体こういうことなのだろうと思います。その一文から、工藤氏はハイレッド・センター及び、 赤瀬川の活動をよく理解されていることが分かります。しかし、一つの最も重要な点に関しては、あまり理解されていないようです。もっとも、そのことは「理 解」されるべきものではないといえるかも知れません。それというのも、それが「問い」という問題だからです。すなわちそれは我々にとって、芸術とか生活と かを分離して考える以前の命題、「自分にとって最も重要なものは何か」という問いであります。「対社会性」というテーマを取りあげたのも、それ以外にグラ ンドやモチーフがないからに過ぎません、そして、工藤氏が指摘されるような「芸術の死」ということは、いまだにハイレッド・センターでは結論ずけられてい るわけではないのです。問題がそれ以前のところにあるからです。ただ、我々が行なった活動に言葉をあてはめようと思うとき、正確ではないが、しかし「芸 術」という言葉が最も近いといえるかもしれません。千円札事件懇談会が「芸術」という場合、その意味を無理なほど拡大していることは確かでしょう。実際は 新しい言葉が必要なのです。「問い」は、何らかの回答を要求します。われわれは、そのような問いを問うための数多くの実験の中から、答えは暗い灯台の足元 にしかないと思うようになりました。すなわち、答えは問そのものの中にしかない、“問う”というその思考性こそが重要なのだということです。だからそれ は、難解なほどよいわけです。赤瀬川の千円札をモチーフにした作品もこのような線にそったものです。しかし解答のないところに解消させることの困難な誤解 が生じます。それが人間にとってあまりにも当然の創造であることを論評するには今迄にない言葉、新しい形而上学や法学が必要になるからです。いずれにしろ われわれが大切にしなければならないことは〈創造としての闘い〉にたいする論理の厳密な正確さであります。ですから、ばかばかしい認識のされかたや、つま らない断定、無意味な束縛を受け入れるわけにはいきません。問題は、「表現の自由」ということである以上に、自由そのものの問題であるということを理解し ていただけないでしょうか。(ハイレッド・センター)

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 私こと工藤晋はすぐに反論を書いた。日本読書新聞というのは書評週刊誌としては名門だが、なにしろ週刊だから、発行されてすぐ反論しても、掲載は 翌々週になる。工藤こと私の八百長が載ったときは赤瀬川原平の千円札事件第一回公判の後であった。公務員・30歳の投書は「『あいまいな海』いまいずこ」 というタイトルになった。

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 僅かな字数の中でしか、発表出来ないという、読者の宿命を承知の上で、兎角の議論をしようというのだから、委細をつくした話にはならぬのであっ て、芸術は死んだという断定の根拠を明らかにするためには、私の乏しい力量では一冊の分厚い本が必要であろう。高松氏の「お答え」も、その点では同じ条件 にあるので、なるべく揚足とりにならぬようにしたいのだが、私はなにも「“芸術の死”ということ」をハイレッド・センターに公認して貰いたいのではない。 ハイレッド・センターについていうなら、その誕生が頗るつきの芸術の卵の殻をお尻につけているとしたとしても、そんなことは無縁なものとして流通する可能 性を示唆している点で評価したいと私は考えるのである。この辺の問題については別に緻密な議論をしたいものだと思うのだが、差し当っては「千円札事件想談 会が『芸術』という場合」赤瀬川氏の作業の「その意味を無理なほど矮小化していることは確か」だと云っておこう。懇談会は「十人十色」で「統一的意見」が 出し難いだろうとは思うが、にも拘らず、千円札事件アピールは懇談会の名において出されているのであって、従って私の指摘に対しては「個人の考え」ではな く、どうせ解答してくれるなら、懇談会の考え方を聞かせて欲しいものである。

 7月15日の椿近代画廊での事情説明会を拝聴したが、その際、誰からだか知らぬが、こういう質間が出された。「表現の自由の問題として、赤瀬川氏 は無罪だどいう主張のようだが、芸術表現として人を殺した場合、赤瀬川氏はやはり表現の自由を主張し、懇談会はやはり無罪だというか」   

 司会者はきわめてラジカルな質問であると云いはしたが、懇談会のメンバーは真っ向から質問に答えることはせず、赤瀬川氏も又、そのときになってみ なければ見当がつかないというふうなことを、歯切れ悪くしゃべって躱していた。要するに大人気ない質問だから答えるに値しないとでも思ったのであろうか。 高松氏が「“表現の自由”ということである以上に、自由そのものの問題」だというのは、憲法条項としての「表現の自由」ではなしに、自由そのものの間題だ という正論なのだろうが、いかにも我々には殺人の自由も又、あるのである。

 この質問者の誤りはここにある。一つは基本条項であろうとなかろうと、法秩序の既存の形態を前提にしているという誤り、ここからして、この裁判対策を質問者も矮小化しているのであって、従って無罪主張が殺人に及ぶかという、低次の議論になってしまうのである。

 我々はまず、憲法に規定されているが故に「表現の自由」があるのではないということを胆に銘じておく必要がある。そんな憲法規定なんぞ豚に喰わし てよろしい、そして殺人は表現だというあたりまえな事実から眼をそらすべきではないのである。千円札模造と殺人との間に表現の位相差を探す必要はない。懇 談会は自由に、よしんばそれが殺人であっても、権力による裁判は不当だというべきであった。何故ならばそのアピールには「どだい芸術家がそのモチーフおよ びテーマを選択するにあたって法律の規制を蒙ってはならない」とあるのである。そして質問者のもう一つの誤りは云っても無駄な相手に「問い」を発していた のかも知れないということである。さて、「十人十色の異見」という隠れ蓑で誤魔化されては意味がない。説明会で千円札模型についての独自な見解を出してお られた石子順造氏に伺いたい。千円札懇談会の欠陥は私の指摘した点にありや否や、赤瀬川氏の「あいまいな海」いまいずこ(公務員・30歳) 

                  *********


今泉省彦 

そして、赤瀬川千円札裁判が始まった
(絵描き共の変てこりんなあれこれ前説16)
 
仁王立ち倶楽部017(1989年2月発売)

 日本読書新聞に変名で投書したそれへの反論を、お前がやれと云われてこりているから、今度はへまをしない。美術評論家石子順造名指しで返答を要求 した。石子の返答は1966年10月3日号に載った。『権力もまた幻想の構造体---工藤晋「“あいまいな海”いまいずこ」に答える』というタイトルであ る。

                  **********

 御指名により本誌9月5日号本欄の工藤晋氏にお答えします。貴兄は千円札懇談会が、「十人十色」のまさに懇談するための集まりにすぎないことを認 められながら、「懇談会の考え方を聞かせて欲しい」と望まれ、「〈十人十色〉という隠れ蓑で誤魔化」すなと釘をさした上で、会の一員である私個人の意見を 求めておられます。貴兄の御要望をどのような形で満たせばよいものかと、ぼくもいろいろ考えたのですが、ぼくが会を代弁できるわけでもなく、また会は「隠 れ蓑」としてつかえる代物でもありませんから、やはり私見を述ぺるしかないのです。ぼくはハイレッド・センターの諸活動を、ぼくたちの日常感そのものにひ そむ不条理性に迫る作用力として評価しております。また赤瀬川原平の千円札模型については、同型同大で粉らわしくかなりの量を印刷したという、検察側の起 訴と全く同じ理由で、従来までの芸術とは異質な、独目な機能を果す〈芸術〉作品と見なしています。いわゆる近代主義的な主体論のカテゴリーで捉えられる芸 術というのなら、ぼくもそのようなものは死減さすべきだと考えます。制度によってのみ実体化する紙幣は、国家権力を集約的に象徴します。しかもぼくらの生 の欲望が紙幣に対する欲望に還元できるほどにも、物によって囲繞され、疎外されているとすれば、存在回復の志向が、紙幣を透過してそこにぴったりはりつい た日常性の背後の、現実の幻想性に向うのは当然だと思われます。ぼくはすでに赤瀬川のこの仕事について「〈描く〉という行為をもっとも象徴的に行為した」 好例であり「共同体そのものの成立を、権力を軸とした幻想構造として、視線のなかに組みこむような手順で逆倒してみせた」(「眼」12号)と書きました。 そこでぼくは、赤瀬川は「スリやカッパライと同断の刑事事件として人知れず裁判を通過すべきだった」といわれる工藤氏には同意できかねます。赤瀬川の作品 行為は、スリやカッパライと同じ地平で、なおそれをこえて現実の幻想性、欲望の不条理性にかかわっていこうとする、存在回復のための表現行為だったと思う からです。彼はその本来の筋道からいえば、「人任かせ」で裁判を通過すればよいといえると思うのです。工藤氏は「芸術幻想」といわれますが、権力もまた構 造体としての幻想に過ぎず、裁判はその具現である演劇以外の何物でもありますまい。しかし逆倒的には判決によって、被告のかけがえのない肉体でその幻想を あがなわせることで実体化します。であってみれば自ら一個の幻想への権利である表現行為が法によって裁かれるのはそもそも不当です。貴兄の御指摘のとお り、表現の自由は憲法に規定されているからあるのではありません。なお7月8日号本誌に「声明文要旨」とあるのは正確でなく、懇談会事務局で作文した「事 件の経緯とアッピール」要旨であることも一言付け加えておきます。

                 ***********

 石子は後でどうも今泉さんがくさいとは思っていたと云った。

 さて話を8月迄戻さなければならない。赤瀬川原平千円札模造事件の第一回公判は、この投書のやりとりの途中で開かれた。8月10日朝10時からの 予定であった。定刻迄に杉本昌純辮護士、特別辮護人瀧口修造・中原佑介・針生一郎、千円札懇談会のメンバー、被告人の印刷屋等事件関係者、そして傍聴者が 多数つめかけていた。法廷は701号、傍聴の多い事件に使われる部屋である。皆、廊下で立ち話をしていた。来ないのは肝腎の赤瀬川原平であった。杉本辮護 士はあたふたと駆け回って、書記官と話を付けた。確か20分か30分開廷が遅れた。被告人意見陳述の原稿ができなくて、赤瀬川は徹夜したのであった。

 3人の裁判官が入ってくると、廷吏の号令で起立させられる。それから始まった第1回公判の模様については赤瀬川の著書に詳しい。巷間に法廷ハプニ ングと喧伝された出来事などの詳細はそれで読んでいただく方が、私は手がはぶけて有難い。午前中の審理は裁判官の人定質問から始って、検事の起訴状朗読、 辮護人の起訴状に対する求釈明、検事の求釈明に対する釈明、被告人3名の意見陳述と型通り進んだ。昼休み休廷、午後1時再開ということになって、簡単な食 事を摂って戻ってきた。廊下のソフアーは関係者で満席だし、居るところがないから法廷の傍聴席に坐って居眠りしていた。ところが意外なことになった。廷吏 の声で眼を開けたら、被告席に腰縄を打たれた青年が立っていた。裁判官も検事もいた。いかにも国選辮護人という風のたよりない感じの老辮護士もいた。座っ ていてはいけないみたいでドアーをみた、廷吏の手で閉められていた。判決云い渡しであった。被告人を強盗致傷道路交通法違反により懲役7年に処する。老辮 護士は裁判官に深々と頭を下げた。青年は拘置場から刑務所へ身柄を移される。警務官が手錠を掛け、腰縄を引いて退廷すると、同じ裁判官、検事、辮護士で、 別の被告が入ってきた。20代後半のサラリーマン風の男で、鉄道定期券の日付改ザンで捕まったのであった。判決は懲役1年執行猶予3年、いずれも判決云い 渡しの後で、本人の将釆をおもんぱかった最低の刑であって、二度とこういうことをしないようにという裁判官の説諭が付いた。午前中のなんら罪の意識のない 華やいだ公判とはおよそ別種の、家族や友人・知人の傍聴もまるでない、それは裁判であった。私はうかつに居眠りしていたばかりに、目撃しないわけにはいか なくなったひとの恥じを恥じた。工藤晋こと私が「スリやカッパライと同断の事件として裁判を通過すぺきであった」と書いたばかりの時である。10分ほどの 白昼夢のような出来事であった。

 午後1時公判再開。特別辮護人の意見陳述、杉本辮護士の意見陳述、検事の冒頭陳述と進んで、検事側の証拠申請に入る。そこで検察側押収の証拠品が 廷内に並べられ、一つ一つが被告人赤瀬川原平のものであるかどうかが裁判官によって確認される。同じく千円札写真製版原版が被告人の印刷屋2名の所持して いたものであるかどうかが確認された。次には辮護人の冒頭陳述があって、辮護側の証拠申請となる。辮護側証拠物はそこで法廷内に持ち込まれた。なにしろ量 が多いから、傍聴人といえども手伝わないわけにはいかない。千円札懇談会の川仁宏・中西夏之・高松次郎・私は傍聴席を離れて廊下に山積みになっているそれ らを法廷内に運び入れた。


今泉省彦

終わりに
(絵描き共の変てこりんなあれこれ前説17)

*以下の部分は80年代に原稿を戴いていたものの仁王立ち倶楽部中断のため発表はされていません。よってこのWebでの初めての発表となります(1999.7.15 荒井記)

 赤瀬川原平千円札模造被疑事件の第一回公判での弁護側証拠申請は、日本の先鋭な現代芸術が一体どんな具合になっているのかということに力点を置い たものであった。そして赤瀬川が美術家だということと、ハイレッド・センターのメンバーだったということもあって、その種の美術家の作品や、ハイレッド・ センターの物品などが主たる証拠物であり、したがって、時ならぬ現代美術展が法廷内でくりひろげられることになるのであった。廊下に山積になっていたそれ らを、証拠申請となるとはこびこまなけれならない。芸術品となると廷吏よりは傍聴人の吾々の方が得手である。千円札懇談会事務局長の川仁宏、メンバーの中 西夏之・高松次郎そして私は傍聴席を離れて廊下から法廷内へ、証拠物を運び込んだ。それらはとりあえず弁護人席の後の長机の上に並べられた。ところが高松 次郎の作品は、三尺真四角のベニヤ箱の中でとぐろを巻いていて、外からは見えない。紐の作品なのである。「箱から出せよ」「いいのかなあ」と高松が云っ た。「いいから出せ」それから私は杉本弁護士に「あの紐を伸ばしていいか」と聞いた。「あの作品は伸ばさないと意味がないんだ」。杉本は「判った」と云っ た。高松の作品だから本人がやるのが一番いい。高松は法廷から傍聴席へ紐を引っぱっていって、誰かれの首や肩にひっ掛け回した。私は傍聴人席に戻って、高 松に紐を掛けてもらった。そして遠慮勝ちに裁判官席の方にも紐は延びて行った。内心、裁判官や検察官に掛けてやればいいのになあと思った。それをきっかけ として、赤瀬川・和泉達・川仁・中西の等身大背面裸体の青写真が法廷内を横断して掲げられたり、中西作品として無数の洗濯ばさみに挟まれた人物が法廷内を うろうろ歩き回ったりという始末になったのであった。公判は11回続いた。11回目は判決公判で1967年6月、赤瀬川は懲役3ヶ月執行猶予1年、印刷屋 の2名は懲役1ヶ月執行猶予1年であった。印刷屋の2名はこれに服し、赤瀬川は控訴した。高裁判決が原判決支持で最高裁へ、最高裁も又、控訴棄却で結審し たのが、1970年5月であった。

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 エロ本出版の大手、アリス出版のアルバイトで、自動販売機用のオナニー雑誌『クリス』の編集をやっていた荒井真一君から、原稿を頼まれたときは驚 いてしまった。「ほれさ、ハイレッド・センターの頃のさ、色々あるじゃない、書いてよ」、おまえさんの役に立つならなんでもやるよと引き受けてから原物の 雑誌を渡されて、あれれと思った。俗に自販機本と云われるこの手の雑誌を買うのは、にきびの出始める小学校高学年から、中学生、高校生低学年ということに なろう。この年代の男の子達が、荒井君が云うようなテーマの文章を読むわけがないではないか。「いいんです、おれだってこんなのやってんの馬鹿々々しいか ら、自分の興味のある勝手なことをやりたいんです」、竹田賢一氏も書いていた。原稿料も安いけど出すと云われた。何回だ、11回連載です。始めてみると、 アリス出版があぶないという噂が耳に入った。そしてこの雑誌『クリス』は私の連載7回目でつぶれてしまった。私は連載物になれていないから、1ヶ月置きに ものを書くのは面倒であった。時間がたつと、その次何を書くつもりだったか忘れてしまう。その都度資料を引っぱり出すのは馬鹿らしいから、荒井君からさい そくがある前に勝手にどんどん書き進めていたから、つぶれたときにはあと4回分が荒井君の手元に残ってしまった。私は無理をするこたあない、掲載出来な かった分は返してくれればいいよと云うのだが、彼には彼なりのほかの事情やら自負やらがあるらしかった。雑誌『クリス』はつぶれたけど、好き勝手をやって いた欄『仁王立ち倶楽部』を続けます。そのかわり原稿料は払えませんと云った。そんなことはかまわない。11回では終わらなかったし続けて書くということ にした。そんなわけであった。

 

 私は執筆に当たって、あくまでハイレッド・センターとその周辺で私がかかわったことだけに限定して書いた。赤瀬川が東京地検から起訴された時期に は、事実上ハイレッド・センターの活動は停止していた。そして赤瀬川の千円札はハイレッド・センター結成以前に意図されたものだから解釈の仕方でははずれ てしまうかも知れない。しかしながら、一審裁判はまぎれもなくハイレッド・センター的に動いたとも云えるのである。そんなわけで、この連載はここで終了と するのが至当と判断するのである。

 終わりにのぞんでふたつだけつけ加えることがある。赤瀬川の『東京ミキサー計画』パルコ出版刊は、云ってみればハイレッド・センター総集編である が、ここにはハイレッド・センターを名乗ってやった仕事について欠落がある。発足頭初、高松次郎のやったことで、6センチ真四角くらいの紙に、渦巻き状の 線条が印刷されたシールであって、この線条の先端から任意につなげた落書きを要請する短い文が刷り込まれていた。国電その他の公衆便所の、大便所の壁に貼 り回った。あとで高松に結果を聞いたけど、まったく失敗らしい。これは高松の紐の作品の延長にあるのであって、ハイレッド・センターのというよりは、高松 のハイレッド・センターへのかかわりよう、あるいは、高松の発想にかかわる重大な鍵だと私は思っている。

 それからもうひとつは、私がハイレッド・センターを名乗ってやろうとした唯一のことである。これは、美術手帖1971年何月号であったか、美術評論家石子順造の書いた論文の後を受けて書いたものの末尾に記載されているから転載する。

 「私はハイレッドセンターのイヴェントの発案や実行に直接かかわったことはないと書きました。それはやったこととして顕在化している。和泉達の作 品による101から139までの内にあるイヴェントの発案や実行に直接かかわったことがないという意味です。やらなかったこととして、顕在化せず、和泉達 の101から139のリストに含まれていないイヴェントの発案と実行には、ハイレッドセンターの諸君とはかかわりなしで、ハイレッドセンターとしてかか わっています。芸術の卵の殻が尻にはりついてはなれないままに、ハイレッドセンターの活動が終焉に向かいつつあり、日韓闘争が総評、社共指導部のサボで風 化するのが見えている時期に、ある集団がアメリカ大使館に乱入する計画をたてていました。私はそのことによって開かれていく情勢の変化は踏めない。これは 一場のハプニングでしかないそれと、芸術の卵の殻から抜け切らないハイレッドセンターをごったまぜにしてみたらどうか。〈サイゴ テキハプニング ニサン カサレヨ〇〇ヒゼ 七ジ アメリカタイシカンマエ ハイレッド センター〉ところがその集団は実行日前夜の会議で計画を中止してしまった。」

仁王立ち倶楽部総目次(1985.6-89.2)より(主宰者:荒井真一氏)

 荒井真一(1959~)

1983 東京都立大学人文学部中国文学科卒
1981-84 美学校・吉田克朗銅版画工房
1985-87 同助手
1985-89 ミニコミ誌「仁王立ち倶楽部」主宰(現在・中断中)
1987 School of Visual Arts(NYC)のサマーセッションに参加
1990-91 武蔵野美術大学大学院造形研究科版画コース中途退学
1992-1994 タンザニア・ザンジバルニュンバ・ヤ・サナー」美術学校で専任講師(青年海外協力隊)