『自立学校の企図に寄せる』
『自立学校の企図に寄せる』
<形象6号>
1962年(S.37) 31才
コンミユーンの執行権力者が、学校をコミユーンにしてしまうとするならば、学校設立者は、コンミユーンを学校にしてしまうのでなければならぬ。
インタナシヨナリストもいれば、ナシヨナリストもおり、フアシストもいる、相互コミニケーシヨンの断絶と、その対極化という極点で、それぞれが、それぞ れの思惑のベールをかなぐり捨てて、まったき全体像を示めすそういう折りの、絶対行政権力の権力行使の政策は、一種混沌とした指令としてあらわれインタナ シヨナルな命令書と、ナシヨナルな命令書とが、あるいふぁフアシズムのそれが、互いに打消しあう同時要求となって、戦線をかきみだしながら、それとして協 同戦線を形成する。その激しい憎悪と、一方、風聞として定かならず、それ故に、途方もなく茫漠と広がった、どこにいて、どこに現われるかわからぬ、不安の 一般表現としての、したがって神兵であり、相互の憎しみ合いからの救い主であるところの反革命軍への、隠微な親和感のさゝやきが、街角から街角へ、まなざ しの一瞥のようにひらめく、そういう時に成立するコミニケーシヨンは、ある政治権力の行政機構が、なにものにも立ちまさっている時期の、相互滲透性のデリ ユージヨンを一挙に打ち破るのであって、コミニケーシヨンとはどんな場合にも一方交通のそれでなければならず、それは例えば、理解の如何を問わずにいきな り胸をさしつらぬく匕首なのだと思い知るべきである。
コミニケーシヨンの相互性は、相互滲透ではなく、噛み合った櫛の歯のように、あるいはからみ合う男女の指のように、一本ごとに交互に、相手に向き合う高 低さまざまな、皮膚に接してしかもついに傷つけあわぬ匕首なのである。では相互コミニケーションの断絶した、コンミユーンにおけるコミニケーシヨンはどう か。切っ先が接し、なお相手を克服しようと圧力がかけられて弓なりになったりサーベル、または溝に落ち合わず、歯と歯が向かい合った櫛のように、相互に傷 つけ合うよりは、コミニケーシヨンそのものを傷つけ合うそういう様相として示し得るであろう。
こういう時期を学校として、そこに期することがあるとすれば、インタナシヨナリストが、その仮面をかなぐり捨てるかのように、ナシヨナリストとして立ち 現われ、ナシヨナリストが、フアシストとしての裸身を示しフアシストが、意外にもインタナシヨナルであったりすることであるように思われる。
社会主義者がブルジヨア政権の閣僚となるのは驚くにあたらず、実に無政府主義者が政府閣僚となるという喜劇を、吾々はスペイン革命において覗見しているの である。そこで、学校でみるのも又、この種の、変貌の劇でなければならないのであって、断じて教えられることをこばみながら、変容せしめられていく場こ そ、理想の学校というべきであろう。
このソクラテスというよりは、プラトンの理想の学校を運営していくにあたって、運営者のとるべき態度は、以下のとおりであらねばならない。
1.あらゆる政治フラクシヨンを排除しない。
1.教師・学年・学期・クラス制を承認しない。
1.多数決方式によらない。
1.啓蒙化傾向に機敏なアンテナを持ち、その萌芽を踏みつぶし、大勢が動かし難いときは、そのときをもって閉校する。
この5項目に従うを得ないときは、理想の学校は崩壊し、また崩壊せしむべきであろう。
第二の提言
―自立学校アッピール―
他のたすけなしにみずから立つものが自立であるならば、存在形態として自立者であることは出来ない。自立者が存在形態としてありえるのは想念とし てである。即ち自立の想念の具現者という想念としてである。常におのれとしてではなしに、おのれのありうえべき、あるいはありうべからぬ対象として、従っ て他者としてそれは存在する。
この遂におのれに体化し得ぬ想念とのつきあいを引受けるものは、遂に癒すことの出来ぬ渇えをも同時に引受けるはずである。おのれを自立者として措定し得 ず、自己意識者としてあるところのものは、他ならぬ自立の想念の具現者という想念を担い持つが故に、他立の想念の具現者の想念も又荷はなければならず、他 立の地平に切結ぶ垂直の運動方向のみが軸として有効であるが故によく他立の地平を動かし得るはずだと思い込んだツァラトゥストラのような、他立に及び得ず 再び想念の棲家に引返えす自立想念の具現者の後姿をさえ自立意識者は見通さねばならぬ。
かくしてアンチ・クリマックスの病に堕ち、安住の墓を持たぬものの学校とはなにか、それはもはや教えることも教えられることももたぬもの達が凍てついた ようにお互いにみつめあってみじろがぬ、いわば一見荒廃期の精神分裂症患者の集団のごときものであるだろう。治癒を願うものは他立の側に賭けるのであっ て、病院即ち啓蒙学校へ行かれるがよい。癒えることを願はぬものは病の重篤をこそ自己目的とするのであって、こゝではメドウサのまなざしで応え、なにもの をも石と化する想念のきっさきがよくおのれを石と化し得るか否かが問われるだろう。
従って、この学校に集うものはメドウサでなければならぬのであり、運営プランにおける先生も、これに対応する生徒も、開校と同時に意味を失う学校遺制な のであって、遂に医師・患者、あるいは先生・生徒であろうとする参加者は、発見されるやたゞちに放校処分に附さねばならぬのである。
運営上の原則はかくして以下の通りである。
1.いかなる政治・宗教上のフラクシヨンをも排除しない。
1.多数決方針をとらない。
1.教え、教えられようとする参加者は排除する。
1.学年、学期、クラス制をとらない。
1.以上の各項に従うを得ないとき自立学校は閉鎖する。
オンライン編集委員会サイトより引用
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