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首くくり栲象

首くくり栲象

 

.「 マ ジ ッ ク 」

11月18日(水)~11月23日(祭)

むかし触沢(ふれさわ)という名前のボクサーがいた。フライ級で闘っていた。フアイティング原田の時代なら各階級にチャンピオンが一人で、大場政夫の時代ならばWBAとWBCの2団体でチャンピオンは各階級に二人ということになる。定かではないが、触沢はそれ以降の選手だったろう。
ともかくかなり前の話で、触沢は世界ミャンピオンに一度だけ挑戦した。その試合をテレビで観戦していた。チャンピオンは外国人でその闘いぶりは記憶しているが、名前は蘇ってこない。

 触沢のトランクスは黒地で裾がやや長めで右側に十字架の刺繍が白く施しされてあった。セコンドの中に、裾の長い牧師服を身につけた本物の日本人牧師が混じっいる光景が画面に映し出された。触沢はクリスチャンだった。二人は各インターバルともなれば共にお祈りをしている。

 (まことにあなたがたにもう一度告げますもしあなたがたのうちにふたりがどんな事でも地上で心を一つにして祈るなら天におられるわたしの父はそれをかなえてくださる)

 ラウンド開始のゴングは鳴り、その度チャンピオンのパンチは触沢の右顔面を叩き、左顔面を叩き、完膚なきまでにとチャンピオンのパンチは触沢の頬を叩き始めた。事は聖句の謂いの通り、左の頬にも右の頬にも、証は顔面に赤く腫れ上がってあらわれた。

 「求めなさいそうすれば与えられます捜しなさいそうすればみつかります。」

 と触沢と牧師は試合中に求めたであろうし、捜しもしたであろう。
その聖句には続きがある。

 「 叩きなさいそうすれば開かれます。」

 触沢のパンチはチャンピオンの顔面はおろか体にも届きはしなかった。
もはや「叩く」相手はチャンピオンではないと閃いのだろうか。パンチは空を突き、打たれたるばかりになった。 レフリーは試合を止めた。触沢の顔面は無残に崩れていた。

必敗の感覚という謂いを首くくり栲象は長い間こころに泊めてある。
それは誰と対話しているのではなく、黙って産まれ、黙って育ち、黙って、逝く。
そういった脳裏の出来事の音信で聴いている。
皮膚の細胞から雫か棘ように感触している。
棘にこじつければ薔薇の幹の上には花弁が柔らかに萌芽している。
雫に喩えれば溶けて下に流れる。
花弁に地上の歓びがあるならば歓びとは遠方の方角を、雫に震え、棘に刺された心臓の音を必敗の感覚と捉えているのかもしれない。

 自己実現の地上の歓びとは反対のベクトル。

 この雫や棘が、脳裏のなかで帰化するか否かは、ときに庭で霞を食べて生くるべく兆を、耳の後ろ側に予感する、マジック!に架かっている。

 

 

 

 

http://ranrantsushin.com/kubikukuri/index-1.htm

より引用しました。

 

 

 

 

 

赤瀬川原平

赤瀬川原平 書店

赤瀬川原平の本

路上観察

建築観察

野蛮ギャルド

おいしい日本美術

おいしい油絵

フィルム時代

機械時代

金属機械

人間の世の中

科学する頭

科学の原始

偏った本棚

ジュンク堂サイトより引用
路上観察

1
一円大王

2
シンボーズ・オフィスへようこそ! 完全版

3
マンホールのふた 日本篇

4
マンホールの蓋 ヨーロッパ篇

5
完本・建築探偵日記

6
0円ハウス

7
藤森照信の原・現代住宅再見 3

8
藤森照信の特選美術館三昧

9
林丈二的考現学

10
中山道俳句でぶらぶら

11
ライカ同盟 東京涸井戸鏡

12
ライカ同盟パリ開放

13
路地

14
本人の人々

15
李白の月

16
ライカ同盟NAGOYA大写撃

17
ベトナム低空飛行

18
印刷に恋して

19
建築探偵、本を伐る

20
明治がらくた博覧会

21
ごはんつぶがついてます

22
これを読まずして、編集を語ることなかれ

23
平然と車内で化粧する脳

24
装丁/南伸坊

25
赤と黒

26
新正体不明

27
路上観察学入門

28
笑う茶碗

29
李白の月

30
路上観察学入門

31
笑う写真

32
考現学入門

33
東京を騒がせた動物たち

34
マンホールの博物誌

35
赤瀬川原平のブータン目撃

36
老いてはカメラにしたがえ

37
老人とカメラ

38
路上の神々

39
オランダ歩けば

40
パリ歩けば…

41
東京路上博物誌

42
ルーヴル美術館の楽しみ方

43
京都おもしろウォッチング

44
「本」に恋して

45
編集狂時代

46
香港頭上観察

47
路上探偵事務所

48
モンガイカンの美術館

49
建築探偵奇想天外

50
建築探偵神出鬼没

51
建築探偵東奔西走

 

風倉匠

風倉匠 略歴

1936年 ・大分生まれ。本名・橋本正一。
1945年 ・川に捨てられていた不発弾の信管を叩いて爆発、右手人差し指を失う。
1952年 ・大分県立大分工業高校在学中、結核を煩い療養。
1954年 ・高校卒業後、「新世紀群」のアトリエに出入りし、絵画に取り組み始める。
この頃から、風倉と名乗るようになる。
1956年 ・武蔵野美術学校油彩科に入学。(のち中退)
・赤瀬川原平と知り合い、吉村益信のもとに出入りするようになる。
1956年 ・大分県立総合文化祭(大分県教育会館ホール)で【椅子から落ちる】ハプニングを行ない、鎖骨にヒビが入る。
1958年 ・第 11 回日本アンデパンダン展(東京都美術館)に作品を出品。
1960年 ・滝口修造を囲んで、「ネオ・ダダ」結成宣言をおこなう(吉村アトリエ)。
・ネオ・ダダイズム・オルガナイザー展(銀座画廊)で作品を発表。
・安保記念イベント(吉村アトリエ)に参加。
・第 2 回ネオ・ダダ展(吉村アトリエ)に、作品を出品。
この頃から、風倉匠と名乗るようになる。
・ビーチ・ショー(鎌倉/安養院・材木座海岸)に参加。
裸体で海に投げ込まれ、海藻を巻いて上がってくるパフォーマンスを行う。
1961年 ・荒川修作個展(夢土画廊)にて、作品の蓋を開けるパフォーマンスを行う。
・初の個展、風倉匠個展(村松画廊)を開催。会期中一日だけ、【椅子】と言うイヴェントを行う。
原作/風倉匠 翻案/赤瀬川原平 演出/すがとしのり
1962年 ・鎖陰は映画である(京都/祇園会館)に参加。
赤瀬川原平、風倉匠、小杉武久、刀根康尚などがハプニングを行う。
・敗戦記念晩餐会「芸術マイナス芸術」(国立市公民館)で、イヴェント「サドの遺言執行式」を行う。
赤瀬川原平、土方巽と共演。焼き鏝で自分の胸を焼く。
・英雄たちの大集会(福岡/百道屋・百道海水浴場)に小杉武久、刀根康尚とともに参加。
1963年 ・風倉匠個展「リリパット王国」(大分/キムラヤギャラリー)を開催。
・DANCE EXPERIENCE 土方巽による「あんま」(旧草月ホール土間)に出演。
天井のはりに腰掛け、うずくまり続けるが、劇就床間際「水をくれ!」と叫ぶ。
・SWEET16(草月ホール)に《リリパット王国舞踏会》を出品。
【ロープを洗う】ハプニングを行う。
1964年 ・ハイ・レッド・センター「ドロッピングイベント」(お茶の水/池坊会館)に参加。
・「首都圏清掃整理促進運動」(銀座/並木通り)に参加。
1965年 ・DANCE EXPERIENCE の会「バラ色のダンス澁澤さんの家の方へ」(千日谷公会堂)に参加。
1966年 ・加藤俊子と結婚。
1967年 ・石崎浩一郎企画の、実験映画の上映会「インターメディア」(ルミナ画廊)に大林宣彦らとともに参加。
・ハプニング大会「チャンポンメンを持ちながら」(千日谷公会堂)に参加。
後ろ歩きのエンドレスフィルムを写し、映像と同じ服装で【逆向きに歩く】ハプニングを行う。
1968年 ・東映教育映画の嘱託として原子力発電など理科教材用映画の制作に携わる。
1969年 ・邦千谷舞踏研究所公演「本牧亭六華撰」に参加。
・インターメディア/アートフェスティバル(日経ホール)に小杉武久、刀根康尚らと参加。
脚立から1段ずつ飛び降りるイヴェントを行う。
1971年 ・第 10 回現代日本美術展(東京都美術館)に、フーコー振り子による《魔術によって宇宙の一部を証す道》を出品。
・松澤宥の「音会」に参加。猫の皮を張った楽器“拈華微笑”を瞑想台に吊り下げたり、3 本の木にピアノ線を張り鳴らすイヴェントを行う。
1972年 ・諏訪湖で開催されたイヴェントに参加し、直径5m のバルーンを湖の上に浮かべる。さらに中にテープレコーダーを入れ、音を録音する試みをする。
1973年 ・駒場アンソロジー(邦千谷舞踏研究所)に邦千谷、八田淳、彦坂尚嘉、呉埜孔らと参加。
この企画は週一回、約半年間行われた。
・北海道・網走に移り住み、カフカの『流刑地にて』の映画化を試みる。
2 年間続けるものの結局完成には至らなかった。
1974年 ・松澤宥の企画した「世界蜂起 1972,73」展に参加。
《ユメヲキヲクスルカザクラ》と記された電報作品を出品。
1975年 ・北海道を引き上げ、東京・小平に移り住む。
1976年 ・風倉匠個展「FACSIMILE」(日本橋画廊)を開催。
・この頃から松澤宥のあとを受けて美学校夜間部の教壇に立つ。教科は「最終美術科」。
1977年 ・長女・志保が誕生。
1978年 ・風倉匠個展「ホワイトクロス」(国分寺画廊)を開催。
・カバラ【どうしてる?】(京都大学西部講堂)を開催。
紐を張り巡らせたり電球を吊るしたり、ハプニングを続ける風倉にテープレコーダーから 3 分毎に「どうしてる?」と声がかけられる。
1979年 ・「Summer Performance 1979」に参加し、【チェロを壊すパフォーマンス】(麻布/天井桟敷)を行う。
・大分に帰郷し、絵画塾を開く。
1980年 ・風倉匠個展「-絵画の起点を探す検討作業-」(大分県立芸術会館)が開催され、絵画、オブジェなど約 150 点を展示。
1984年 ・「WHAT WAS NEXT?」(西武美術館)に小杉武久、一柳慧らと参加。バルーンによるパフォーマンスを行う。
1986年 ・前衛芸術の日本 1910-1970 展(パリ/ポンピドゥ・センター)に招待され、小杉武久とジョイント・パフォーマンスを行う。
1988年 ・土方巽追悼公演(土方アトリエ アスベスト館)に石井満隆、小杉武久とト
リオで出演。バルーンによるパフォーマンスを行う。
・九州派展(福岡市美術館)で、バルーンによるパフォーマンスを行う。
1989年 ・風倉匠個展「ミニアチュール < 青い黙示録 > 展」(亀の井別荘)を開催。
1991年 ・「NHK 文化サロン おもしろ美術館」のリーフレットに、詩「娘の卒業にあたって」が掲載される。
・備前アートイヴェント(備前市/久々井運動公園東隣)に参加。
1992年 ・「風倉匠版画展」(湯布院空想の森美術館)が開催され、オープニングで暗黒舞踏の石井満隆と共演。
 

川仁宏

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川仁宏(かわに ひろし、昭和8年(1933年6月19日 - 平成15年(2003年2月5日 )は、編集者思想家パフォーマンスアーティスト
東京都新宿区に生まれ、慶應義塾大学仏文科卒。1950年代から、自立学校、大正行動隊、東京行動戦線など、政治的な公然、非公然なものまで多種多様な活動に参加する傍ら、前衛パフォーマンスを実践した。中でも中西夏之高松次郎らと共に行った「山手線事件(電車内での攪拌)」というハプニングは後のハイレッド・センターへと繋がるプレ・イヴェントとして名高い。1964年には赤瀬川原平のいわゆる「千円札事件」では事件懇談会事務局長を務め、法廷でのパフォーマンスを実現した。
1969年から現代思潮社の企画部次長、編集長を務め、赤瀬川原平をはじめ、唐十郎笠井叡らの著作出版、稲垣足穂の全集、デリダバタイユフーリエらの哲学書などを手がける。また、美術専門学校である「美学校」の設立を主導し、既存の美術大学における教育に一石を投じるなど、類稀なるプロデュース力を全面に渡って発揮した。
1974年に現代思潮社を退社後は、芸術や土方巽などとの舞踏関連の著作を続けながら、言葉による即興のライブや、トーキングなどを実践、1980年以降、灰野敬二小杉武久との競演を境に、美術家や舞踏家との競演によるライブパフォーマンスを行う。
1996年十二指腸潰瘍で倒れ、1998年には脳梗塞、つづいてパーキンソン症候群を患い、車椅子生活を余儀なくされる。この身体の不自由は、川仁が実践しようとしていた自らの即興性を大きく損ねることとなり、ライブ活動を事実上停止することになる。
2000年頃から車椅子や揺り椅子に座ったままでのライブパフォーマンスを再開したが、2003年2月に肺炎を悪化させ亡くなった。享年69。