美学校アーカイブ
今泉省彦
読売アンパンの大看板に四尺ほどの棒に刷毛をつけ「死す」と大きく書いた
(絵描き共の変てこりんなあれこれ前説9)
仁王立ち倶楽部010(1986年4月発売)
読売新聞社主催第15回日本アンデパンダン展で。高松次郎の紐の作品を上野駅迄伸した翌日、版画家の遠藤昭宅に寄って依頼してあった版木の彫り具合を見た。その又翌日は版木を受取っている。展覧会の最終日が3月16日の土曜日だから、その前夜にふたつのことをやろうと思っていたのだ。
15日の夜、遠藤宅8時の約束が1時間ほど遅れた。やることの助人は、遠藤の他に川仁宏を頼んで置いたのだが、遠藤の友人でやはり画家の森田良三が話を聞いて面白がって来てくれていた。打合せを済ませると遠藤夫人も含めて総勢5人で東京都美術館に向った。
私は四尺ほどの棒にペンキ刷毛をくくりつけたのと、油性の黒ペンキを持って出た。美術館正面石段右側に接してアンデパンダン展の大看板が立っている第15回日本アンデパンダン展と横書き一段に書かれてありその下に会期が小さく入り、主催読売新聞社と書いてあったと思う。その第15回日本アンデパンダン展と書かれてある隣りに続けて、「死す」と大きく書くのがその日の目的のひとつであった。
打合せ通り、川仁と森田はそれぞれ別の方角に散っていった。私がペンキの蓋を開けていると、「来た来た」いってひとりが戻ってきた。パトロールの警察官のことである。そこで遠藤夫妻はアベックよろしくゆっくりと噴水の方に歩いて行った。警察官はねらい通りに遠藤夫妻につられて、噴水の方に行ってしまった。その隙に私は手早く「死す」と大きく書いた。書くためには石段と看板の二尺ほどの隙間に入らなければならない。右足を踏み込むと、ねちゃっとどぶどろみたいなものに靴が入った。嫌な感じであった。書き終えて足元を見ると、牛の糞みたいなものが拡っていた。まさかそんなところに牛が来るわけはないが、人間のうんこにしては大き過ぎる。短靴と靴下とズボンの裾迄汚れていた。匂いをかぐとやっぱりうんこのようであった。私は人を呪わば穴ふたつかとつぶやいた。警察官を上手にまいてきた連中は、私の字を実にいいとほめてくれたけど、ちっとも嬉しくなかった気持は萎てしまったがやることはまだあるのだ。
私が遠藤に頼んだのは、葬式のときに街角に貼る指差しマークの版木なのだ。それで刷った300枚ほどをまいて歩かなければならない、10日に中西がひっばり回した紐の跡をたどって、美術館の扉のところから石段を降りて、噴水を迂回して木立に入り、上野駅公園口迄丹念に置いて歩いた。枚数が少し足りない感じであった。
翌日は土曜で、私は昼過ぎに美術館に行った。雨であった。葬式の案内は濡れて路面に貼りついていた。看板の落書きは消されずにあった。やるときめたことはすべてやったが、はたしてどうか、心持ちむなしい感じではあった。
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そんなことがあって、しばらくして高松次郎が逢いたいと云ってきた。何故だか忘れたが、高松と武蔵小金井で逢った。彼は武蔵小金井駅北口の東側の風景を谷内六郎の世界だなあと云って眺めていた。高松の話は、自分と中西・赤瀬川でハイ・レッド・センターという結社を作るということであった。そして、その理論面を担当して欲しいというのであった。私がどう返事をしたかはっきりしない。当時の私は充分に生意気だったから、協力はするけど、一緒にはやらね えよぐらいなことは云ったのではないかと思う。高松は軽率な男ではないから、3人の間で話が出て、合意の上で私に逢いに来たのだろうと思う。この時期の私は、それが不思議でないほど、濃密に彼等とつきあっていた。
私の日記はいかんながら3月16日を期にとだえているから、それ以前しか分らないが、1962年から63年にかけて、ほとんど連日この3人のどれかと電話か逢うかしている。勿論雑誌『形象』の編集上の間題もある。赤瀬川の著書『東京ミキサー計画』では、雑誌『形象』の編集権を3人に渡されたと書いてあるが、そこまではしていない。君等が好きなように使っていいと云ったのが、そんな風に聞えたのかも知れない。いずれにせよ、雑誌『形象』8号の編集人は私である。この号は山手線ひと回りだったはずの行為の総括座談会残り半分と、高松の「“不在体”のために」、赤瀬川の「スパイ規約」、音楽家刀根康尚の「CRAPPING PIECE」、やはり音楽家の小杉武久「ANIMA 1-2、その他」、そして私の第15回読売アンデパンダン展でのいきさつのレポート。更には赤瀬川の作品として千円札模型、中西の作品としてポケットライブラリー、高松の作品として1メートルほどの木綿の紐がとじ込まれている。表紙は赤瀬川である。彼等は確かに編集に協力した。刀根や小杉が原稿を書いたのは彼等からの要請であることは間違いない。高松にしても、赤瀬川にしても、自分の文章が印刷されたのは始めてではなかったか。
この号はとっくに出来ているはずだったが、なにやかやで遅れて、読売アンパンに間に合わなかった。それで第15回読売アンパンでの騒ぎについて書くことになった。赤瀬川の千円札も試刷りがうまくいかなくて、何度も色を変えて刷った。最後にクラフト紙にダークグリーンでやったのが当りで、それをはさみ込むことにした。ヤレが何枚となく出来たので、赤瀬川は都美術館の読売アンパンでばらまいたのである。この印刷の際、私は赤瀬川と印刷屋との間に立ったタイプ印書の女のひとにうそをついた。「太丈夫かしら」と云うから、警察とは問題ないとおごそかな顔をして云い切ったのだ。なにしろ雑誌『形象』は500部しか作らない。売るといったって特定少数の人の手にしか渡らない。そしていつも半数以上手元に残っていたのだ。もし使われたらその方が面白いのだし、ひょっとして問題になっても依頼人が警察の問題はないと保証したということが証言としてあれば、印刷屋は起訴されないだろうし、されても無罪に違いないと私は思っていた。なにしろ印刷しないことにはそれから先がないのだ。しかし周知の千円札裁判で印刷屋は有罪になってしまった。でもこれはまだ後の話であ る。
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ハイレッドセンターは『第五次ミキサー計画』をもって旗上げした。新宿第一画廊である。赤瀬川が最初に千円札を使った案内状を作ったコラージュ展『あいまいな海』の会場である。1963年5月であった。理論面を担当するかも知れなかった私には相談がなかった。この展覧会についても、赤瀬川の『東京ミキサー計画』にくわしいから読んで欲しく思う。ともかく私はこのハイレッドセンターの旗上興行を賛成出来なかった。

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