美学校アーカイブ
今泉省彦
終わりに
(絵描き共の変てこりんなあれこれ前説17)
*以下の部分は80年代に原稿を戴いていたものの仁王立ち倶楽部中断のため発表はされていません。よってこのWebでの初めての発表となります(1999.7.15 荒井記)
赤瀬川原平千円札模造被疑事件の第一回公判での弁護側証拠申請は、日本の先鋭な現代芸術が一体どんな具合になっているのかということに力点を置いたものであった。そして赤瀬川が美術家だということと、ハイレッド・センターのメンバーだったということもあって、その種の美術家の作品や、ハイレッド・センターの物品などが主たる証拠物であり、したがって、時ならぬ現代美術展が法廷内でくりひろげられることになるのであった。廊下に山積になっていたそれらを、証拠申請となるとはこびこまなけれならない。芸術品となると廷吏よりは傍聴人の吾々の方が得手である。千円札懇談会事務局長の川仁宏、メンバーの中西夏之・高松次郎そして私は傍聴席を離れて廊下から法廷内へ、証拠物を運び込んだ。それらはとりあえず弁護人席の後の長机の上に並べられた。ところが高松次郎の作品は、三尺真四角のベニヤ箱の中でとぐろを巻いていて、外からは見えない。紐の作品なのである。「箱から出せよ」「いいのかなあ」と高松が云った。「いいから出せ」それから私は杉本弁護士に「あの紐を伸ばしていいか」と聞いた。「あの作品は伸ばさないと意味がないんだ」。杉本は「判った」と云っ た。高松の作品だから本人がやるのが一番いい。高松は法廷から傍聴席へ紐を引っぱっていって、誰かれの首や肩にひっ掛け回した。私は傍聴人席に戻って、高松に紐を掛けてもらった。そして遠慮勝ちに裁判官席の方にも紐は延びて行った。内心、裁判官や検察官に掛けてやればいいのになあと思った。それをきっかけとして、赤瀬川・和泉達・川仁・中西の等身大背面裸体の青写真が法廷内を横断して掲げられたり、中西作品として無数の洗濯ばさみに挟まれた人物が法廷内をうろうろ歩き回ったりという始末になったのであった。公判は11回続いた。11回目は判決公判で1967年6月、赤瀬川は懲役3ヶ月執行猶予1年、印刷屋の2名は懲役1ヶ月執行猶予1年であった。印刷屋の2名はこれに服し、赤瀬川は控訴した。高裁判決が原判決支持で最高裁へ、最高裁も又、控訴棄却で結審したのが、1970年5月であった。
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エロ本出版の大手、アリス出版のアルバイトで、自動販売機用のオナニー雑誌『クリス』の編集をやっていた荒井真一君から、原稿を頼まれたときは驚いてしまった。「ほれさ、ハイレッド・センターの頃のさ、色々あるじゃない、書いてよ」、おまえさんの役に立つならなんでもやるよと引き受けてから原物の雑誌を渡されて、あれれと思った。俗に自販機本と云われるこの手の雑誌を買うのは、にきびの出始める小学校高学年から、中学生、高校生低学年ということになろう。この年代の男の子達が、荒井君が云うようなテーマの文章を読むわけがないではないか。「いいんです、おれだってこんなのやってんの馬鹿々々しいから、自分の興味のある勝手なことをやりたいんです」、竹田賢一氏も書いていた。原稿料も安いけど出すと云われた。何回だ、11回連載です。始めてみると、アリス出版があぶないという噂が耳に入った。そしてこの雑誌『クリス』は私の連載7回目でつぶれてしまった。私は連載物になれていないから、1ヶ月置きにものを書くのは面倒であった。時間がたつと、その次何を書くつもりだったか忘れてしまう。その都度資料を引っぱり出すのは馬鹿らしいから、荒井君からさいそくがある前に勝手にどんどん書き進めていたから、つぶれたときにはあと4回分が荒井君の手元に残ってしまった。私は無理をするこたあない、掲載出来なかった分は返してくれればいいよと云うのだが、彼には彼なりのほかの事情やら自負やらがあるらしかった。雑誌『クリス』はつぶれたけど、好き勝手をやっていた欄『仁王立ち倶楽部』を続けます。そのかわり原稿料は払えませんと云った。そんなことはかまわない。11回では終わらなかったし続けて書くということにした。そんなわけであった。
私は執筆に当たって、あくまでハイレッド・センターとその周辺で私がかかわったことだけに限定して書いた。赤瀬川が東京地検から起訴された時期には、事実上ハイレッド・センターの活動は停止していた。そして赤瀬川の千円札はハイレッド・センター結成以前に意図されたものだから解釈の仕方でははずれてしまうかも知れない。しかしながら、一審裁判はまぎれもなくハイレッド・センター的に動いたとも云えるのである。そんなわけで、この連載はここで終了とするのが至当と判断するのである。
終わりにのぞんでふたつだけつけ加えることがある。赤瀬川の『東京ミキサー計画』パルコ出版刊は、云ってみればハイレッド・センター総集編であるが、ここにはハイレッド・センターを名乗ってやった仕事について欠落がある。発足頭初、高松次郎のやったことで、6センチ真四角くらいの紙に、渦巻き状の線条が印刷されたシールであって、この線条の先端から任意につなげた落書きを要請する短い文が刷り込まれていた。国電その他の公衆便所の、大便所の壁に貼り回った。あとで高松に結果を聞いたけど、まったく失敗らしい。これは高松の紐の作品の延長にあるのであって、ハイレッド・センターのというよりは、高松のハイレッド・センターへのかかわりよう、あるいは、高松の発想にかかわる重大な鍵だと私は思っている。
それからもうひとつは、私がハイレッド・センターを名乗ってやろうとした唯一のことである。これは、美術手帖1971年何月号であったか、美術評論家石子順造の書いた論文の後を受けて書いたものの末尾に記載されているから転載する。
「私はハイレッドセンターのイヴェントの発案や実行に直接かかわったことはないと書きました。それはやったこととして顕在化している。和泉達の作品による101から139までの内にあるイヴェントの発案や実行に直接かかわったことがないという意味です。やらなかったこととして、顕在化せず、和泉達の101から139のリストに含まれていないイヴェントの発案と実行には、ハイレッドセンターの諸君とはかかわりなしで、ハイレッドセンターとしてかかわっています。芸術の卵の殻が尻にはりついてはなれないままに、ハイレッドセンターの活動が終焉に向かいつつあり、日韓闘争が総評、社共指導部のサボで風化するのが見えている時期に、ある集団がアメリカ大使館に乱入する計画をたてていました。私はそのことによって開かれていく情勢の変化は踏めない。これは一場のハプニングでしかないそれと、芸術の卵の殻から抜け切らないハイレッドセンターをごったまぜにしてみたらどうか。〈サイゴ テキハプニング ニサンカサレヨ〇〇ヒゼ 七ジ アメリカタイシカンマエ ハイレッド センター〉ところがその集団は実行日前夜の会議で計画を中止してしまった。」

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