美学校アーカイブ
今泉省彦
60年安保闘争後のなしくずしの情熱の中で何かが生まれつつあった
(絵描き共の変てこりんなあれこれの前説1)
仁王立ち倶楽部@CHRIS 002(1985年6月発売)
1959年の春は、日米安全保障条約改定反対のデモの渦のなかにあった。60年になると、先走りして革命は目睫の間にあるど言いだす評論家もいた。政府・自民党の一部で、ひそかに自衛隊出動の計画が検討されているという噂も流れた。国会議事堂は連日数万のデモ隊にとり巻かれていた。
私は結核患者として病院にいた。そして59年の秋から手術後の患者であった。輸血による血精肝炎で衰弱しきっていた。デモ帰りの友人が見舞に来ては目撃した情景を昂奮した口調で報告していった。テレビはニュースのたびごとに反対闘争のたかまりを報道していた。どういうものか私は醒めていた。肉体の衰弱は精神の情動を許さないからなのかもしれない。私は見舞客の昂奮にとり合わなかった。「駄目だよ、うまくいきっこないよ、社共両党をシャツポに乗せて、総評が主力部隊じゃ、いくら全学連がはねても利用されるだけさ、革命なんか起るもんか」
樺美智子が圧殺され、6月19日、安保改定案件は自然承認となった。あとには社共両党への不信と、全学連の分裂が残った。
そんな時期に、いまはさかんに音楽とも踊りとも名状し難いイベントをやっている川仁宏が見舞に来た。最近、近所に住んでいる絵描きと知り合いになったが、そいつがお前を知っているという話であった。中西夏之である。近頃の絵描きや、美術ジャーナリズムや、画学生で、中西夏之を知らない者はいない。日本有数の絵描きになっている。彼が芸大の2年生の頃からの知り合いなのである。私は3つほど歳上であった。中西の同級でその後外国の国際賞をとりまくって、国際的な美術家になった高松次郎とは、帰りの方角が一緒だったこともあって、ずっとつき合っていたが、中西は方角違いであった。その方角違いに旧友の川仁が引越して、中西とのつき合いが始っていたのであった。
私は退院してしばらくの問、薬をもらう外来がよいが続いた。病院は川仁のアパートの方角だったから、ついでに川仁を訪ねることが重さなった。それで、川仁の部屋で中西と再会することになった。
50年代の画学生のほとんどは、社会主義リアリズムという考えにひきずり回されていた。要するに美術は社会主義革命に奉仕しなければならず、しかもそれは近代美術のような判り難いものではなく、民衆の判る写実的な手法で描かれなくてはならないのであった。そして判り易いだけではなく、社会の矛盾や、資本家や権力に抗する闘いの典型的な場面を描き、闘いを鼓舞するものでなければいけないのであった。いっちょうまえの絵描きにだって難しい注文の多い理屈を楯にして、評論家共がお説教をたれるのだから、ろくな絵も描けない画学生の頭がこんがらかるのは当り前であった。
このこんがらかった脳みそを少し楽にしてくれたのが、1955年の日本共産党第六回全国協議会報告であリ、56年のソヴェト共産党書記長フルシチョフのスターリン批判であった。一方は武力闘争を含めた革命路線の清算であり、一方は一国社会主義と個人崇拝の否定であった。片方は振り上げたこぶしの おろしようがなくって自殺する何人かを出しながら、歌って踊ってマルクス・レーニンの時代を迎え、もう一方はもっと馬鹿気ていた。このスターリン批判以前は、共産党員同志の論争のあげくの悪罵は「貴様あトロツキストだ」というのであったが、56年以後は「貴様あスターリニストだ」という言葉に変った。言われた奴は黙っていないから、「そういう貴様こそスターリニストだ」と怒鳴り返えすわけで、1956年以前には共産党内部にトロツキストがうじゃうじゃいたのが、この年からはスターリニストばかりいることになった。こういうこっけいは中にいると意外に気付かないものである。
そしてこんがらかった脳みそを完全にときほぐしてくれたのが、60年安保闘争の不成功であった。政治駆引きの筋道なんかおよびでもない単純頭の画学生なんかに、政党の複雑なたくらみが判るわけもないが、単純頭が納得するようでなければ、これは策略でもなんでもなく、ただの騙しに過ぎない。1960年代の政治手法はまだ幼稚だったのだろう。しかしながら、幸せにもそれで吾々は社会主義リアリズムというけったいな幻と完全に縁を切ることが出来たのである。とは言え、深刻な後遣症が、少くとも私には残った。
それはなにか、社会主義リアリズムという変な帽子はぬげたけど、政治と芸術とか、社会と芸術とか、頭を熱くしていた命題迄は消えてなくなってはくれないのである。公式や教条がなくなれば、自分で考える他はない。芸術アプローチと、政治アプローチが重なってひとつであるような地点がどうもあるように思えていた。そこのあたりについて、中西と逢えば議論していたのであった。
その年の10月に社会党委員長浅沼稲次郎が刺殺された。安保闘争の高揚に行動右翼が危機感を持ったのであろう。あくる61年2月には中央公論社長 嶋中鵬二宅に右翼少年が飛び込んで、お手伝いさんが誤殺された。少年は中央公論所載の深沢七郎「風流夢譚」の内容に抗議すべく、嶋中を刺殺せんとして訪れ たのであった。深沢の小説には皇居前の広場で天皇・皇后がギロチンにかかって、首がスッテンコロリンと落ちる場面があって、少年はそのことに反発したので ある。
私はこの事件にすこぶる腹を立てた。天皇は日本国憲法に、国民統合の象徴という奇妙な立場で規定された公的存在であり個人というよりは制度として あるものであって、公的存在というものは、常に言論その他の表現によってチェックされることを嫌忌してはならぬのであるから、天皇が名誉毀損で深沢ならびに中央公論を訴えないのは当然としても、右翼諸氏が言論圧殺に乗り出すのは当を得ていないということが一点。一歩ゆずって深沢ないし嶋中が抗議の対象として選ばれるのは仕方がないとしても、全く無辜のお手伝さんが刺殺されるべき理由はないのであって、天皇をたてまえとして無辜の民が殺された以上人間に戻った天皇は一言あるべきだと思ったのである。第三点これはむしろ番外とすぺきだが私の父は職業軍人としてフィリピンの山中で戦死した。敗戦の1カ月前である。軍人としてそれは当り前だろうが、父の死は天皇に帰属するものである。親は仕方がないにしても、子供にはちっとも良くないのだから制度的にも、個人存在としても、天皇というものは私にとってあまり愉快ではなかった。いまはもう父親の死んだ齢をはるかに過ぎ、天皇が負うべき戦争の責任者であった頃の、天皇の齢も越えてしまって、さらに美濃部達吉の「天皇機関説」を天皇が支持していたらしいことや、戦争回避のために随分腐心したらしいことやら、普通な善良なひとらしいことが判ってきて、個人的な怨恨だとか、天皇そのひとに対する蟷螂の斧のようないかりはほとんど消えてしまったといっていい。なにしろ1961年のことである。いまの話ではない。私は面白くないのであった。

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